老齢の二代目白川和尚は寺の向うの小山を指差した。
  「あの木陰に社殿が見えますね。そこが安足間神社です」
  その言葉を二度も繰り返し、神社に何の用かと、こちらの顔を不思議そうに眺めた。遥々、百田宗治を訪ねたことを話すと、それならこちらへと、本殿前の小屋の脇へ誘った。真新しい百田宗治の詩碑が居心地良さそうに座っていた。一昨年、自費で建てたばかりだと言う。
  「神社の詩碑が詩の一節だけなので、この碑には全文を刻みました。私の父親が宗治と親交が深く、終戦後の都会暮らしに難渋していた宗治に"安足間に来い"と手紙を送ったのです。宗治は来なかったが詩・安足間が送られて来たのです」
  ゆっくりと、素朴な口調で、一編の詩の誕生秘話を教えてくれた。
  詩碑には銅板に陽刻された詩「安足間」の全文が真新しく輝いていた。高まる鼓動でシャッターを押す手が固くなった。
安足間からこいという。/縁側から、正面に、大雪山の雪渓が見えるという。/石狩の上流があふれて、泥やなぎの根を洗っているのを、みにこいという。/山女を食いにこいという。/寺もある。郵便局もある。/望みなら、手ごろの住居を建ててやるという。/薪には不自由させぬという。/埋もれにこよという。/死ににこよという。
  「どうぞご覧下さい」と詩碑の脇の小屋を開けて招じ入れてくれた。文学館に納めたい一級品の資料がずらりと並ぶ。百田宗治の書と遺品、三木露風の書などがさりげなく置かれていた。眼福のひと時であった。百田宗治を偲ぶ(永眠して50年を過ぎた今も、毎年10月に百田宗治祭)地元の人々の会報誌や先代白川和尚(俳人・境内に句碑)の短冊の複製など豪華なお土産が次々と差し出された。
  「遠路はるばる、よく訪ねてくださった。折角だから、せめてお茶だけでも」
  断っても、断っても袖を引く。遠来の客にお茶も出さないのは恥だと繰り返す。
  「申し訳ありませんが、先を、急ぎますので」と固辞して、安足間神社へ向った。
  原生林の中に寂れた神社が沈んでいた。社殿の奥の暗闇へ、雨を含んだ草にズボンを濡らしながら、詩碑に取り付いた。山から転げ落ちた岩に詩が嵌込まれていた。何度もシャッターを押したが暗くて写真にはならなかった。
  「アンタロマに来よという 大雪山を見に来よという 埋もれに来よという
  この詩句に惹かれ、この地に憧れた日々は長かった。だが、安足間はあまりにも遠かった。やっと念願を果たした感動が、詩人の直筆の詩句と共に木々の中に溶ける。「埋もれに」「死にに」来た訳でもない旅人には、大雪山も山女も姿を見せてくれなかったが、宗治に示されたこの地の人の温かさが今も残っていることだけで充分であった。和尚の好意を無にした事を後悔しながら、込み上げて来るものをそっと鞄にしまいこみ、車に戻った。車は層雲峡の原生林にあるという、白蓮の歌碑を探しに飛び出した。

*百田宗治は明治26年大阪市に生。23歳で詩集『最初の一人』を出版。詩誌『椎の木』の主宰。三好達治・丸山薫・北川冬彦・伊藤整ら若手の詩人たちの良き指導者として活躍。戦後札幌に移住。道内各地を講演して歩く。特に愛別町安足間には何度も来遊しこの地を愛した。昭和30年63歳で永眠。安足間。この変わった地名はアイヌ語「アンタロマップ(ふちのあるもの)」の意。原生林を落ちてきた石狩川の激流が山裾で淵を作っていたからの命名でないかと教わった。

         
 (旭川・宮沢賢治碑:宗谷岬・宮沢賢治碑:安足間・百田宗治碑:写真クリック拡大


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