北海道紀行−安足間(アンタロマ)−


旭川にはナナカマドが熟れていた
 
  二つの詩と日本で一番早い紅葉が北海道に来いと誘った。
  ナナカマドの赤い実の歓迎を受けて、宮沢賢治の詩碑を訪ねることから旅を始めた。
旭川東高校の校門脇に巨大な岩がでんと座っていた。さすが北海道の碑だ。巨大で、堂々とした造形がポプラを従えている。たった7時間の短い滞在、たった一編の詩しか残さなかった旭川なのに、宮沢賢治は巨人だった。碑面には詩の全節があった。
植民地風のこんな小馬車に/朝はやくひとり乗ることのたのしさ/「農事試験場まで行って下さい。」/「六条の十三丁目だ。」/馬の鈴は鳴り馭者は口を鳴らす。/黒布はゆれるしまるで十月の風だ・・・乗馬の人が二人来る/そらが冷たく白いのに/この人は白い歯をむいて笑ってゐる。/バビロン柳、おほばことつめくさ。/みんなつめたい朝の露にみちてゐる。・・・
  大正12年8月の早朝、樺太までの旅の途上、賢治は旭川に降りた。前年の11月に最愛の妹・トシを見送り、その悲しみを詩「永訣の朝」や「無声慟哭」に閉じ込めようと試みたが、収まらず、トシとの心の交流を求める漂泊の旅であった。詩「旭川」は、さらりと描かれた28行の小品で、メモのように見えるが、賢治の心境を推察して読めば味わい深い。
  ここ旭川東高校は「六条十二丁目」だから、賢治はこの前の通りを隣の区画まで走ってもらったに相違ない。その道には賢治が詩に残した「ポプラ」や「落葉松」も健在であったことが何となく嬉しかった。
  樺太への旅が残した作品で詩碑になっているのが今一つある。それは日本最北端の宗谷岬の天辺に座っている。10数年前、夏だと言うのに肌寒い強風の岬に立った。眼前に広がる間宮海峡の青の上を雲が風に千切られて走った。「とうとう北の果ての賢治さんに会いに来ました」と赤御影石に挨拶を贈った。碑面には「はだれに暗く緑する/ 宗谷岬のたゞずみと/北はま蒼にうち睡る/サガレン島の東尾や」と詩「宗谷」の一節が刻まれていた。
  そんな思い出を辿りながら、評判の旭山動物園に立ち寄った。公営の動物園としては随所に工夫が凝らされ、噂の通り混雑していた。白熊もライオンもお昼寝中。皇帝ペンギンに手を振り、上から、下からと泳ぎ回る数頭のアザラシに歓声あげた。咲き競うコスモスを前景に、遠景の市街地がスポットライトを浴びたように光っていた。


安足間は大雪山の麓
  一編の詩が北の大地の片隅に私を連れてきた。
  旭川から層雲峡に近い上川郡愛別町へ。北海道の大地を真直ぐに走る。ビートの緑、小麦の黄色、裸土の茶色・・・が果てしなくパッチワークを織り上げる。開拓時代を思わせる、藁葺きの農家がぽつんと取り残され風景に、この地を切り拓いた人々の顔が浮ぶ。まもなく、期待して来た大雪山系の絶景が・・と眼を凝らすが低い雲が勇姿を隠していた。
  石狩川に接近した所で、小さな集落があった。安足間(あんたろま)だ。詩人・百田宗治が愛した安足間は何の変哲も無い小さな集落だった。大雪山の麓の片隅だ。詩碑がある安足間神社が見つからない。地図に出ていた神社だけに慌てた。万葉寺で聞いてみようと、寺にある八幡城太郎句碑、初代白川和尚句碑から調べながら
  「百田宗治の詩碑のある安足間神社は何処でしょうか」
  「百田宗治さんなら和尚さんが詳しいですよ。何せ、宗治の会の会長さんだから」
法要を済ませた参詣客が和尚を呼んでくれた。


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