(写真:岡麓旧居・内鎌八幡神社斎藤父子歌碑)
死の側より照明(て)らせばことにかがやきて ひたくれなゐの生ならずやも
(前略)この歌は、昭和五十年の作品で、歌集『ひたくれなゐ』の秀歌として人口に膾炙した一首である。当時の史の生活環境の苦しさは、歌集の後記に端的に書かれている。
 「……老母の失明はいよいよ進み、昼夜もなく、時間もなく、約十年。このごろでは食事の記憶さえたちまち消えて、全く身心老耄、暗黒の中にいます。また、昭和四十八年に脳血栓に倒れた夫は、救急入院以後三年余、近頃は起床も起立も出来なくなりました。共に一級身障者です。……両者ともしだいに堕ちるばかり、荒廃の姿になってゆきます」。
 老母が八十六歳、娘である史は六十五歳だった。この、一級身障者の老人介護に明け暮れる苛酷な日々に、掲出歌は作られた。暮らしが荒廃し尽しても生きていれば、それは「生の側」の住人といえよう。だが、果たして「堕ちるばかり」の彼らを輝く、くれないの、生と呼べるのだろうか――。煩悶しながら、老母と夫の「荒廃の姿」を見つめる作者が浮かんでくる。
 それでも、それだからこそ……、と一首は訴える。どのように短い生命でも、どれほど悲惨な生存であろうと、それでも「死の側」から照らして見ると、彼らは、いかに煌々と、ひたくれないに息づく「生」であることか。
 死はわからない。生の意味も知らない。ただわかるのは、ここに生き行くものの輝かしさ、かたじけなさだけだ、とうたう。まるで、生命への信仰告白のような一首である。作者は何の宗教に帰依しているわけではないけれど、二・二六事件の悲劇を生き、戦争に生き残り、そして老人介護の苦渋を味わいながら、おのずから生きる意味を理解したにちがいない。
  長年勤めた会社を退職し、弟を見送り、父の介護が始まった時に、この追悼文に出遭った。歌人斎藤史と同じように、老・老介護にかなりの時間をさき、「堕ちる」ばかりの老人と一緒に日々を送り、自らも老いながら、介護のあり方を考えている時であった。史の絶唱は私の内部に強烈な嵐を巻き起こし、未だに収まることはない。将に「死のうた・生のうた」の傑作で、ずしんと心に響くものがある。
  そんな日々に浮んでは消え、消えてはまた浮んできた「老いの生き方」について、書き留めておきたいことがあるが、今回は追悼の名文の紹介に留めることにしよう。
  大糸線安曇追分を発って松本経由長野に向かう。「白馬にケルンを建て(第一章)」、「田舎のモーツアルトに出会い(第二章)」、「斎藤史を訪ねた(第三章)」の長い旅は、夕焼けに染まる北アルプスにもう一度さよならを言って、終わった。
斎藤瀏(りゅう):明治12−昭和28。長野県北安曇郡生れ。歌人・斎藤史の父。陸大卒業。日露戦争従軍中に負傷。少将に累進。歌人としては佐々木信綱「心の花」の編集者として活躍。昭和11年、2.26事件の反乱幇助罪で入獄。昭和13年仮出獄。戦火を避けて池田町に疎開。
斎藤史:斎藤瀏の長女として明治42年に東京に生。福岡県立小倉高女卒。大正末から作歌を始め、歌誌「心の花」「短歌作品」「短歌人」などに発表。戦後は疎開先の長野に定住。55年「うたのゆくへ」で歌壇での地位を確立。62年から歌誌「原型」を主宰。 華麗で実験的な異色の作風で現代歌壇を先導し続け、76年迢空賞、85年読売文学賞、93年詩歌文学館賞、斎藤茂吉短歌文学賞を受賞。93年、女性歌人として初めて芸術院会員。97年には歌会始の召人。2002年永眠。
                                          (2002.08記:2007.07改)
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