赤彦は明治41年教職を退き、歌に専念する。従って、アララギ派の重鎮として日本の歌壇に大きな足跡を残した、赤彦の輝く20代、教職者としてのほぼ総てが池田町で展開されたことになる。この意味で全国に40基を越す赤彦の歌碑の中でも記念すべき歌碑の一つであろう。

               
             (写真:八幡神社島木赤彦歌碑・同浅原六朗童謡碑)
 
  今一つは、浅原六朗の童謡「てるてる坊主」記念碑である。鳥居の右手、池田小学校の脇に、半身像の彫刻を添えて、誰もが知っている童謡の歌詞が3番まで刻まれた大きな自然石の記念碑である。
  明治28年に当地で生まれた浅原六朗の生涯は悲しみのスタートだった。5歳の時、家業の酒造業・池田屋が破綻し一家離散、幼い六朗は叔母の家に預けられて幼年期を送らざるを得なかった。早稲田大学を卒業後、実業之日本社に入社、雑誌「少女の友」の編集に携わっていた六朗は、童謡「てるてる坊主」を作詞し、これが中山晋平の作曲で発表され大ヒットした。童謡作家として知られるのはこの一作だけで、文壇では新興芸術派の小説家、「人間俳句」を提唱した俳句作家として活躍することになるが、我々の記憶に残るのは「てるてる坊主」の浅原六朗であろう。
  池田町は「浅原六朗記念館」まで建立して、氏の業績を顕彰しているが、「てるてる坊主は信州・松本市郊外の浅間温泉の宿で、故郷の絶景を思いながら作った」(この縁で松本市の城山公園にも「てるてる坊主」記念碑がある)と作者が語っている。また、「二度と住むことのなかった池田の街並みや水面の光る高瀬川が目に焼きついて離れなかった」とも述べている。従って、浅原にとっての池田町は「ふるさとは遠くで思うもの」であったと推察される。観光客寄せの匂いのする浅原記念館はパスして、岡麓を訪ねることにした。
  歌人・岡麓は、正岡子規の直弟子で、芸術院会員にまで選ばれたアララギ派の長老だが、太平洋戦争末期、東京で戦災を蒙り、昭和20年5月、池田町に疎開し、当地で令夫人と愛嬢を失い、自らも昭和26年9月、75年の生涯をその草庵で終えた。
  厳しい終戦直後の日々を送った岡麓の旧居「内鎌庵」は、田園の中で、一日中有明山の見通せる静かな簡素な家(昭和55年復旧整備)。無人ながらよく管理され、庭に歌碑もあった。
     「わき水の浅井のそこの見えすきて 雨そそげともにごらざりけり
  旧居から100mほど離れた内鎌八幡神社の入口にも歌碑があった。碑面には書家としても名を成した岡麓の自筆が刻まれていた。
     「夏消えぬ雪のたか山ややとほに しばしば見とも常あかなくに
  アルプスを望んで建っていたが、残念なことに、アルプスは雲に隠れていた。。
  その少し奥に、岡麓同様に、当地に疎開し、3年間を過した斎藤劉・史親子の歌碑を見つけた。碑面には
黒染のそれとまがへと牡丹花の むらさきにほふおぼろなるつき(斎藤劉)
やまぐにのはるの遠さよゆうぞらは 燃えておもひをふかむるらしも(斎藤史)
の二首が併記され、木陰で暑さを凌いでいた。
  斎藤瀏・史の親子についてはお馴染みではない。しかしながら、つい最近亡くなった斎藤史への追悼文として歌人・佐伯裕子が書いた「死のうた 生のうた 」は筆者に強烈な印象を与えたので、少し長いが、以下に紹介しておきたい。

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