相馬夫妻は、ロシアの亡命者で盲目の詩人エロシェンコを受け入れ、ロシア料理「ボルシチ」を、インドの亡命者ボース迎え入れ、「カリーライス」を教わり、何れも、日本で最初の料理として、中村屋の名物となった。余談は続く。若き芸術家たちが新宿中村屋に出入りするのを、毎日見ている少年がいた。その家は新宿中村屋の斜め向かいにあり、炭屋をやっていた。炭屋の名は紀伊國屋。少年の名は田辺茂一。炭屋をやめて、日本初の画廊付き書店を始めたのが有名な紀伊國屋書店である。"中村屋サロン"はやがて"紀伊国屋サロン"に引継がれ、多くの文化人を育てて行くことになる。(小林正親「碌山美術館のまわり」ほかより編集)

                   第三章 塩の道訪碑

安曇野アートライン
  清冽な水の流れる穂高川や日本一のわさび畑。水の郷。道祖神の村。安曇野、そこには安らぎに満ちた日本の原風景がある。と観光パンフレットが招く。魅力溢れる小さな町が広い安曇野に点在しているので、選択に迷い、計画は二転三転。
  安曇野アートラインと称して穂高町から松川町、池田町へと美術館が並ぶ。田淵行男記念館・禄山美術館・ジャンセン・塚原美術館・絵本美術館・いわさきちひろ美術館・・・と美術愛好家にはこたえられない。今回はその中から「いわさきちひろ美術館」を選んだ。
  信濃松川駅から車で5分。いわさきちひろ美術館は広大な公園の中の洒落た建物。ラベンダーやデイジーの花々が咲き乱れる花畑で記念写真を撮っていると、夕立が山から下りてきた。突然大粒の雨が落ちてくる。慌てて美術館に逃げ込んだ。
  館内は夏休みの子供たちで満員。いわさきちひろは子どもを生涯のテーマとして描き続けた画家で、モデルなしで10カ月と1歳のあかちゃんを描き分けたという。 見晴らしの良い喫茶店でゆっくりしたかったが、孫達宛の絵葉書を買っていると、予約の車の到着で先を急ぐ。
いわさきちひろ:1918年、福井県武生市生。三人姉妹の長女。東京府立第六高等女学校卒。絵は岡田三郎助、中谷泰、丸木俊に師事。1950年日本共産党松本善明(後委員長)と結婚。絵本画家として精力的に活動を展開し傑作を残す。1974年肝ガンのため死去。享年55歳。代表作に『おふろでちゃぷちゃぷ』(童心社)、画集に『ちひろ美術館』(講談社)、など。1950年の文部大臣賞ほか、数々の受賞に輝く。自宅のあった東京にも「ちひろ美術館」があり何時も賑わう。

塩の道は文学碑の宝庫

  松川町から梓川を渡ると池田町。江戸時代には、塩の道・千国街道(信濃と越後とを結ぶ交通、交易の道)が村を貫く交易の要所であった。
  事前調査が功を奏して訪碑は順調に進む。当地の鎮守・八幡神社の森の中はまるで文学碑のオンパレード。車を待たせて、あちらこちらと碑を探して走り、飛び回った。以下に二つだけ書き残しておきたい。
  一つは、神社の鳥居の左手に建つ島木赤彦の歌碑。池田小学校の赤彦の教え子たちの手で建てられた2mを越す黒御影石の巨大な歌碑が林間に座っている。碑面には
        「
この町の 家ひくくして 道広し 雪の山々 あらはにし見ゆ
と刻まれ、碑陰には赤彦の略歴や建碑の由来が刻されている。「広い道」と詠まれた道こそ、越後の上杉謙信が甲斐の武田信玄に贈った塩が運ばれた道だと思いを新たにした。
  当地は明治31年に松本の師範学校(現信州大学教育学部)を卒業した赤彦が、社会人として第一歩を踏みだした記念すべき土地であった。新婚の妻を伴い、池田尋常小学校訓導として、輝かしい出発であった。が、不幸にして、4年後の明治35年に妻が病死する。明治37年に転任するまで、6年間を当地で過した。
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