屋根の風見鶏が印象的だったので、別の角度から見ようと、裏側にまわる。高村光太郎詩碑の案内板。「何! 何!高村光太郎」と駆け寄った。情報に接することがなかった新発見に心が躍る。


荻原守衛
単純な子供荻原守衛の世界観がそこにあつた、/坑夫、文覚、トルソ、胸像。/人なつこい子供荻原守衛の「かあさん」がそこに居た、/新宿中村屋の店の奥に。(中略)彫刻家はかなしく日本で不用とされた。/荻原守衛はにこにこしながら卑俗を無視した。/単純な彼の彫刻が日本の底でひとり逞しく生きてゐた。(中略)四月の夜ふけに肺がやぶけた。/新宿中村屋の奥の壁をまつ赤にして/荻原守衛は血の塊を一升はいた。/彫刻家はさうして死んだ−日本の底で。
 
  いかにも若い人が設計したような現代風の簡素な碑であったが、原稿用紙そのままを銅版陽刻した碑面には光太郎の骨太の字が躍っている。訪問者を歓迎するように・・・。碑の背後、美術館の柵の向うに尾崎喜八の詩碑も遠望できる。愛読する二人の詩人が肩を並べている光景、メモに「私の聖地」と書き留めた。
  旅が終わったら、早速、鎌倉明月院の喜八の墓前に「安曇野の一角に私の聖地が出来た」と報告しなければ。嬉しいお土産を荷台に積んで、安曇野の爽やかな風の中を穂高駅に戻った。


                   
  (写真:穂高中・萩原碌山(坑夫)彫刻・碌山美術館高村光太郎詩碑−クリック拡大−


尾崎喜八−明治25年東京都京橋に生、昭和49年2月に鎌倉で永眠。ヒューマニスティックな詩では誰の追従も許さない。新しい感覚で様々な心を詩や散文にしたが詩風は平明で日常口語の表現のうちに理想主義、人道主義を詠う。尾崎喜八の名前を有名にした「山の絵本」ではまるで地理学書を読むような精緻な情景の描写で埋まり、そこには自然への深い愛と尊敬が溢れている。
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荻原碌山−本名 萩原守衛。明治12年穂高町に生。日本の近代彫刻の父と称される彫刻家。フランスの留学でロダンに出会い、衝撃を受け、彫刻の道を決意し、学ぶ。帰国した碌山は、彫刻「文覚」を発表し、絶賛された。碌山のテーマは「内なるものの力強さ」で「デスペア (絶望) 」「北条虎吉像」「戸張孤雁」「労働者」などに表現されている。明治43年、代表傑作「女」を完成してのち、4月20日に中村屋で吐血、4月22日に永眠。わずか31年の生涯であった。
翌年、渡欧した与謝野鉄幹・晶子夫妻がロダンに碌山の死を伝えた。碌山の彫刻を高く評価していたロダンは深いため息をついて、「日本は、東洋の美術史上で、最も惜しい人をなくした」と述べたという。それ以降、碌山は「東洋のロダン」と呼ばれる。
余談ながら、詩にある「中村屋」は今では菓子屋として著名だが、「日本近代文化の揺籠」としての存在であったことを忘れてはならない。もともと、碌山と同郷の相馬愛蔵・黒光夫妻が明治42年に新宿に開いたパン屋であるが、「己の生業を通じて文化国家に貢献したい」という気持ちが反映し、明治の末から大正にかけて、美術・演劇・文学他の多彩な顔ぶれの人々が集まり、いつしか"中村屋サロン"となった。
   
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