「ここに石を積んだのは 如何なる想い出のためか わたしも石を積む 青春の化石で」こんなキャプションが付いた写真を残そうと、小石を一つお供えして、ポーズを取った。積んだ私達のケルンに、何時の日かまたお目にかかりたいと思いながら、八方尾根にひとまずのお別れをした。(写真はクリック拡大)
              
        (写真:アイガー北壁新田次郎記念碑合成軽井沢室生犀星詩碑白馬高原ケルン


                      第二章 安曇野

安曇野をサイクリング
  松本から穂高町までの大糸線は本数が少ないせいか大混雑。久々に都会の通勤ラッシュを味わう。「梓橋」「豊科」などの美しい名前の駅を過ぎる度に、駅舎はおんぼろながら、コスモスを始めとする花々が溢れていたので心が和む。30分程で「穂高駅」である。
  駅前の店で自転車を借りて颯爽と町中に漕ぎ出した。この穂高町は安曇野平野の中心。大昔遥か南の国からはるばる海を渡って来て、地名由来の「アズミ族」がやっとみつけた安住の地である。
  最初に穂高神社を訪ねる。 日本アルプスの総鎮守でもあるこの里宮(奥宮は上高地の明神池畔)はアズミ族の総社で立派な社が広大な神域に鎮座している。松尾芭蕉句碑や釈迢空歌碑など10基近い文学碑を訪ね、また漕ぎ出した。
  少し町並みを外れると道祖神があちらこちらを守っており、夏の風が頬をなでる。日差しはきついがとても爽やか。穂高川河畔着くと、そこには、作者・吉丸一昌が大正元年に当地を訪れて作詞した「早春賦」(春は名のみの・・・)碑が有明山を背負っていた。清流の傍らにはわさび田が広がり、新鮮な空気が胸一杯になだれ込む。元気をもらって、さらに穂高中学・碌山美術館まで軽快に走った。この町は自転車がとっても似合う町だった。

田舎のモーツアルト
  はやる気持ちを鎮めなければ美術館は上の空になりそうなので、穂高中学の尾崎喜八詩碑を先に選んだ。待ちわびた詩碑とのご対面であった。
  玄関前右手の芝生の上に、期待に違わず、美しい詩碑が待っていた。周りは綺麗に手入れされ、碑を大切にする生徒たちの気持ちが伝わってくる。
  建碑に至るには一編のドラマがあった。
  この詩が、自分たちの学校を題材として作られたものであると紹介したのは、昭和58年度の校内誌「穂高」の編集委員であつた。それまでは、この編集委員の生徒たちのほかは、職員も同窓生たちも気づかずに過ごしていた。この生徒たちの発見に注目し、改めて詩の生まれた経緯を調べ、詩碑建立を思い立ったのは、当時の井ノロ校長。生徒たちが朝夕接して情操を豊かにしてほしい、という願い抱き、この音楽室に学んだ同窓生の賛意と協力を得て、昭和60年の4月に完成をみた。立派な碑が出来た後も、毎年れんげ草の花咲く時期に、生徒はモ−ツァルトの歌曲の合唱や、詩の朗読をして詩人を偲ぶという。
田舎のモーツァルト
中学の音楽室でピアノが鳴っている。/生徒たちは、男も女も/両手を膝に、目をすえて/きらめくような、流れるような、/音の造型に聴き入っている。/そとは秋晴れの安曇平、/青い常念と黄ばんだアカシア。/自然にも形成と傾聴のあるこの田舎で、/新任の若い女の先生が孜々として/モーツァルトのみごとなロンドを弾いている。
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