白馬での訪碑はこの一基の文学碑、心置きなく青春の化石を探す旅を始めることにした。
串田 孫一:1915年東京都生。東京帝国大学文学部哲学科卒。13歳の時、吾妻山五色へ行き、槇有恒氏と吹雪の中を歩き、山の厳しさを体験した。以後、戦前・戦後を通じて、山歩きと思索の旅を続けた。上智大学・国学院大学・東京外国語大学教授を歴任。著書は508冊に及ぶ。2005年永眠。

夢はいつも帰っていった
  スイスの山麓を思い起こす町並みの中にリフトの乗り場があった。この標高750mの駅から3つのリフトを乗り継いで、兎平(1400m)、黒菱平(1600m)、第一ケルン(1830m)と一気に八方尾根を駈け上がる。リフトの横は長野オリンピック回転競技の急斜面のゲレンデが続き、遥か下方にジャンプ台も見える。
高度を上げる度に白馬の町並みが広がりを見せ、野の花たちの歓迎が多くなる。
  第一ケルンに立つと白馬三山が眼前に大きく立ちふさがる。晴れてはいるものの、山頂は生憎雲の中。時々、左端の鑓ヶ岳の山頂が顔を出すが、白馬岳山頂(2932m)は見る事が出来なかった。雲の切れた所から、直下に日本三大雪渓の一つ、白馬大雪渓が遠望できたので満足した。
  ここでは誰しも無言になり、風景に溶け込んでいる。岩場に腰を降ろしじっと雲の行方を追う老夫婦の写真家。もうずいぶんな時間白馬三山とにらめっこのご様子であったのが印象に残った。
  こちらは、スイスアルプス山麓でシルバーホーンの雄姿を見た夜を思い出した。想像逞しくして月光に照らし出された白馬三山の静謐な山並みを、そしてそこに神々の世界を覗き見ようと試みるが、あまりに日差しが強烈でこの試みは失敗に終わった。
  目を東に転ずると、遠くに戸隠連峰が望まれるが、こちら側からだと台形のすっきりした形で、あの荒々しい修験道の山塊の姿はない。それゆえか、戸隠の思い出は蘇ってこなかった。
  ここ第一ケルンから尾根道を1時間歩いて、八方池まで行く予定であったが、急坂に恐れをなして、第二ケルン(1900m)手前から引き返す。一気に1000m以上登ったせいか頭がぼやけてふらつく。治療には道端を彩る高山植物が良く効いた。
  小さな子供たちが元気に尾根を駆け下りてくる。老人がゆっくりと歩を運ぶ。遥かに天に向かって伸びる尾根道に老若男女の足跡が続く。私達はといえば、何度も立ち止まって、遥か下方に広がる白馬の町並みを眺め青春の化石を探す。
「あそこが民宿のあった神城、あの道を兎平へ登り、ゲレンデを神城に滑ったの」
「民宿は随分遠いね。本当にスキーで降りたの」
「降りたわよ雪の中を。すぐだったように思えたわ」とさりげない答えが戻ってきた。
  きっと気持ちは、"夢はいつも帰っていった 山麓のさびしい村に(立原道造)"の世界に留まっているのだろう、半世紀前からずっと。ここにある青春の化石は相当重いようだ。
 化石と言えばスイスにも埋めてきた。ドイツからスイスに周り、同行のツアー客から恐る恐る離れて、作家・新田次郎がスイス・アイガー北壁直下クライネ・シャデックに墓標を建てたのを態々見に行った。アルプスのパノラマもこの地に劣らず見飽きることがなかった。そして、旅の形見にアイガー北壁の麓に小さな石を積んだ。
  見渡すと、この八方尾根にも幾つものケルンが散らばっていた。本来の役目の道標もあったが、想い出をぎっしり詰め込んだ記念碑としてのケルンも多かった。それらのケルンには人を感動させる妖精が住んで居るようだった。ふいに短いフレーズが頭をよぎる。
 
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