信州・大糸線訪碑紀行


                          第一章 白馬高原

旅の始まり
  夏の旅の始まりは願っても無い快晴に恵まれた。松本に向かう特急の中で、急遽旅程を変更した。この晴天を幸いに、安曇野探訪は後回しにして、白馬高原のセンチメンタルジャーニーから始めることにした。
  訳がある。山形・蔵王熊野岳の斎藤茂吉歌碑は霧の中で諦めざるを得なかったし、信州・美ヶ原の尾崎喜八詩碑は、二度の挑戦・失敗の後、三度目の正直も、急変した天候に難渋した。激しい雷雨の中、教えてもらったバス停が間違っていて、最終のバスを逃し、必死のヒッチハイクでようやく無事帰還した苦い経験があった。以来、"山に行くのなら絶対に好天の時"が私の旅の鉄則になった。
  中央線松本駅から日本海の糸魚川駅の間、常に左手に北アルプスを望みながら「大糸線」が延びる。安曇野の平野から立ち上る常念、有明、・・・と名だたる北アの山々が車窓にあって、地図が手放せない。日本に居ながら本場アルプスの気分が味わえる贅沢さだ。
  やがて、仁科三湖の静かな湖面が現れ、小さな峠を越えると、白馬・神城の駅。家内は車窓にしがみついて必死に青春のかけらを探す。あの時何度も通った道を、小さな民宿の屋根を、半世紀前の遺物があるはずは無いと知りながら・・・。私はといえば初めて見る白馬高原の絶景に口を開けていた。

白馬の文学碑を訪う
  何はともあれ、白馬の駅近くの白馬中学校に串田孫一の文学碑を訪ねる。そこには白馬・八方尾根をバックに鶴翼の校舎がすくっと建っている。前庭の串田孫一文学碑は、白馬の厳しい冬に耐えられるように、木々に囲まれ、どっしりと腰をすえていた。高さ2m、横幅3mの巨石の中央に黒御影石をはめ込んで、碑文が作者の自筆で刻まれている。

山は冬になると、夏や秋の/一種の情熱的ないきれや、生命のぬくもりをさっぱりと棄て、/もっとも鋭く生きはじめる。(中略)/頬に痛い横なぐりの風と雪を/待ち焦がれる心を、山を愛する人は/黙って抱いている。(「山の断想」一節)

         
    串田孫一文学碑・クリック拡大:第一ケルンの白馬三山:第一ケルンの白馬のパノラマ)
 
  哲学者・詩人・随筆家 串田孫一の著書は山を愛する人々のバイブルであり、深い思索の中から産み出された言葉が多くの勇気や慰めを与えてくれる。この短い文章の中にも、華やかな季節より、厳しい冬の季節を愛する作者の気持ちが表現されていて、ふと軽井沢の室生犀星の詩碑に刻まれた「我は張り詰めたる氷を愛す」を思い出した。思索にふける作者の姿が浮かんでくる文学碑であった。
  スイスの田舎に移り住んだ文学者ヘルマン・ヘッセや詩人リルケといった人々、そして日本でも高原に住む文学者達、みんな厳しい気候の中で名作を残している。優しさと厳しさの極端なまでの同居。それが名作を生み出す秘訣なのかと考えながら、静かに碑前を去った。
メニューへ                      −p.01−              p.02へ