さすがに観音様の霊場で境内は綺麗に整備されていた。が、白河の関と同様に訪れる人は少ないようで、短い滞在中は貸し切りの状態。この地の謂れの石を見る。古代、奥州・信夫の地は、乱れ模様の絹布を特産物とした。その模様が、もじれて(もつれて)乱れたようであることから「信夫捩摺」として平安貴族に愛用された。みだれ模様のある巨石の上に白布を置き、草で摺って、模様を写し出したようである。その巨石が山門を入ると正面にどっかりと座っている。仰々しく鉄柵に囲まれた只の巨石?だが訪れた人々は有難くその前で記念撮影をすることになっている。世の習いに従って先ず「信夫文知摺石」でパチリと一枚。
  文知摺石を見下ろす丘の上の芭蕉句碑の探訪を済ませ、多宝塔に向かう。右脇には正岡子規の句碑が柔らかな光を浴びていた。並び立つ小川芋銭の歌碑は、若葉に囲まれ、夜半の雨に濡れた文知摺石を見下ろしていた。観音堂の正面にはこの地を歌枕にした河原左大臣・源融歌碑が100年近くの風雪に耐えていた。何れも「お変わりなく」が何とも嬉しかった。、
「早苗とる手もとや昔しのふ摺 芭蕉」 「涼しさの昔をかたれしのぶ摺 子規」
「若緑しのぶの丘に上り見れば 人肌石は雨に濡れつつ」(芋銭)
「みちのくの忍ぶもち摺誰故に 乱れ初にし我ならなくに」(源融)

  花は少なかったが、薄緑の若葉で埋まる境内には、千年もの長きにわたり、人々の間に繰り広げられた数限りない恋が、言霊となって静かに漂っていた。それにしてもこの静寂は何だ。観音様のご利益で乱れる恋心は静められたのだろうか。恋の病には飯坂の湯よりも信夫の観音様が霊験あらたかだと確信し、兎にも角にも、観音様に道中の安全を祈願して車に戻った。
*源融。平安初期の人。嵯峨天皇の子息。陸奥好きの第一人者。別荘は文人墨客のサロンで庭園の風景には奥州の名所を配置。平安期の奥州ブームを作り出した。宇治平等院の創設者でもある。「みちのくの信夫」と聞けば古今和歌集の「みちのくの忍ぶもぢ摺・・・」の歌を連想し、千々にみだれる恋心まで連想が展開できなければ教養人でなかった伝統が江戸末期まで千年も続いたのだからすごい。
     
       (写真左より:花見山桃と連翹:文知摺観音源融歌碑(クリック):同芭蕉句碑)
滝桜一族は大繁栄
 またまたご機嫌ななめのカーナビをなだめながら、福島から郡山経由で三春町へ。
  町は滝桜一族が支配していた。畑中の農家、町中の民家、寺社、いたる所で豪勢な枝垂れ桜が満開の花を咲き競わせていた。最長老は市街地から離れた所にある樹齢千年の滝桜である。町から離れているものの三春の中心はこの名木だ。
  先ずは滝桜へご挨拶に伺った。長老をひと目見んと観光バスが数珠繋ぎ。長寿にあやかろうと我先に膝元に馳せ参じる光景が斜面に展開されていた。想像してきたより、紅色が薄いのは曇天の所為か。長老を取巻く菜の花の黄色の方が眼に焼きつく。岡に登った。頂上には草野心平独特の曲字で彫られた詩「瀧桜」が桜を見下ろしていた。
「梅桃桜/三春の春の/春一等の/瀧桜/萬朶の花は/盛りあがり/すだれ瀧となって/垂れさがる/日本一とも言われての/ベニシダレの/その見事さ/美しさ/背景はあやめの空と/羊雲     草野心平」
案内書には「滝桜はエドヒガン系の紅枝垂れ桜で、国の天然記念物。日本を代表する桜の巨木で、岐阜県根尾村根尾谷の淡墨桜、山梨県武川村実相寺の神代桜とあわせ日本三大桜。四方に伸びた太い枝から、薄紅の滝がほとばしるように小さな花を無数に咲かせ、その様はまさに滝が流れ落ちるかのように見えることから、滝桜と呼ばれるようになった」と記されていた。
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