西行が訪れ「あかずして別れし人の住む里は、左波子の見ゆる山のかなたか」と詠んだ歌碑は奉納された幟の裏側に隠れ、子規が「はてしらず」の紀行で詠んだ「夕立や人声こもる温泉のけむり」、与謝野晶子の「わがひたる寒水石の湯槽にも月のさしいる飯坂の里」の碑は白く塗られた木製の碑で雨の中に光っていた。夕闇は早く、写真も満足に撮れずに碑巡りは終わった。芭蕉も子規も雨にたたられた飯坂であった。さすれば、その足跡は濡れていても致し方ないと諦めるよりほかなかった。子規と同様に冷えた体は温泉を求めていたが、福島市街地のホテルに難を避けることにした。 (写真左より:医王寺芭蕉句碑(クリック):医王寺佐藤兄弟墓:飯坂与謝野晶子歌碑) 現代の花咲爺さん訪問 花見山訪問は混雑を避けて「一番乗り」を狙った。写真家・秋山庄太郎が桃源郷と絶賛して以来、東北屈指の花の名所となった「花見山」は福島駅から5kmほど離れた山峡の小山である。マイカー規制で周辺には駐車場はない。やむなく、タクシーを飛ばした。まさに「一番乗り」で、警備員以外誰もいなかった。 入口右手の山を見渡すと連翹の黄色の向うに淡いピンクと柔らかい新緑が眼に優しい。勝手に「萌えたつ春」と題した絵一幅には「ご一行様歓迎」のご挨拶。 ここは花木栽培をする阿部氏が自らの園地を「みんなにきれいな花を観てもらい心が安らげば」と先代と共に長い歳月をかけて作り上げ、公開している個人の所有地。見事な花山なるも無料で開放している持ち主の優しい志をありがたく頂戴する。 70−80m程の高さの小山は名前の通り花で埋まっていた。山肌で一際目立ったのは楓で、その部分だけが真っ赤に燃えていた。楓は秋に色付くものと思っていたが、確かに楓に間違いなかった。どうやら春に色付くものや、初めから赤く染まっているものもあるようだ。斜面に設えてある小径を花々の饗応に与かりながらゆっくりと登った。さくら、もも、 連翹 、楓、雪柳・・・と「百花繚乱」の形容が相応しい夢の中のひとときが続いた。桜は葉桜への途中、楓、連翹、雪柳は最盛期、ももが5−6分咲きでお化粧の真っ最中。芭蕉や子規が当地を訪れた頃には、まだこんな風景はなかったろうと、先人へのお土産に花々を写真に収めるのに夢中になった。 何時の間にか頂上に着いた。遠景の吾妻連峰は雪を戴き寒風の中、近景には春風に吹かれる花々の膳、何とも心安らぐ贅沢な朝食であった。 恋の病は観音さまへ 小一時間花の中をさまよい、信夫文知摺観音に向かった。今日のカーナビは最初からご機嫌で、無事に観音様まで導いてくれた。5年ほど前に訪れた時と何も変わっていなかった。 「信夫」といえば、いまでこそ福島県の県庁所在地福島市の一地名にしかすぎないが、平安時代の人々が聞けば、千々にみだれる恋の心にイメージを重ねる歌枕の地として、「白河の関」同様に憧れの地であった。「恋心と信夫」を結びつけた元祖は河原左大臣・源融であり、「文知摺石」の伝説を広めたのは芭蕉の「奥の細道」であった。その芭蕉像が門前で待ち構えていた。台石には、奥の細道の一節が刻まれていた。 「あくれば しのぶもぢ摺りの石を尋て、忍ぶのさとに行 遠山陰の小里に 石半土に埋てあり・・早苗とる手もとや昔しのふ摺 芭蕉」 p.05へ −p.06− p.07へ |