雨中の田舎道を隣町の長沼町に走り抜ける。幸いなことに、牛臥城址の中山義秀の文学碑に辿り付いた時には雨は止んだ。山城の巨大な岩に代表作・「碑」一節が銅板に彫られて嵌め込まれていた。 「山間の小さな城下町に 初秋の風の訪れを聞くやうになった 中山義秀」 ここは小説の舞台で、作者・中山義秀はこの村の出身であること以外知らず、「碑」も読んでいない。準備不足を後悔しながら早々に引き上げた。(中山義秀が昭和十四年に発表した小説「碑」は幕末から明治への変革期を背景に、斑石高範、茂次郎兄弟の生涯を書いた小説。茂次郎は長沼藩の武士だった中山の祖父がモデルだという) (写真左より:岩瀬牧場:「牧場の朝」歌碑:長沼城址中山文学碑) 飯坂温泉の碑めぐりは雨で難渋 長沼町から田園地帯を走り、郡山南ICから東北自動車道に乗った。黒雲をあとさきにひた走る。福島飯坂ICで降りて名刹・医王寺を訪う。 医王寺は源義経の家来、佐藤継信・忠信兄弟を生んだ佐藤一族の菩提寺として知られている。佐藤兄弟は父の教えを守り、屋島の源平合戦では義経の身代わりとなって兄・継信が戦死、吉野山では弟・忠信が独りで追手を花矢倉で防ぎ義経の吉野脱出を助けたことなど思い出した。その吉野山・花矢倉の絶景をつい先日見て来ただけに感慨深く参詣。 義経は平泉へ逃れる途中、当寺に立ち寄り、盛大に佐藤兄弟の追悼供養をしたという。雨模様の暗い本堂塀際には、義経贔屓で、奥の細道の途上当地を訪れ、万感の想いで吐いたという芭蕉の句が背の高い辛夷の花に守られ座っていた。 「笈も太刀もさつきにかされ紙のほり 芭蕉」 小雨の中での訪碑で大切なノートも濡れてしまった。おまけに、思いがあちらこちらと飛び回った所為か、本堂の階にノートを置き忘れて大騒ぎを引き起こした。幸い大事に至らず胸撫で下ろす。 医王寺から飯坂温泉の中心までは車だとひと走り。晴天ならまだ明るく充分に碑を巡れると考えていたが、生憎の小雨で、暗くなり始めた温泉街に着いた。 与謝野晶子の歌碑は摺上川に架かる「はりがね橋」(現・新十綱橋)を渡った愛宕山の麓にひっそりと小雨を避けていた。愛宕山登山道の宮本百合子の碑は苦労の末断念せざるを得ず口惜しかった。 「飯坂の はりがね橋に 雫する あづまの山の 水色のかぜ 晶子」 飯坂温泉は古い歴史を持つ名湯で、「奥の細道」にも「飯塚」の名で登場する。ゆかりの地を訪ねるべく、花水旅館の脇から石段を下って川に降りた。100mほど石段を降りた摺上川の川面脇の空地(滝の湯跡。芭蕉の泊まったのは湯番の小屋らしい)に黒々と「奥の細道」記念碑が横たわっていた。碑面には「奥の細道・飯坂」の場面が長々と記されている筈だが、もう暗くて充分には読めなかった。 「其夜飯塚にとまる。温泉あれば湯に入て宿をかるに、土坐に筵を敷て、あやしき貧家也。灯もなければ、ゐろりの火かげに寝所をまうけて臥す。夜に入て雷鳴、雨しきりに降て、臥る上よりもり、蚤・蚊にせゝられて眠らず。持病さへおこりて、消入斗になん」 滝の湯跡から鯖湖湯に廻った。事前に正確な住所が特定できず、イラストマップから、「このあたり」と見当をつけただけの地図を握り締め、温泉街の複雑な道を右往左往。共同浴場「鯖湖湯」(松山・道後温泉の共同浴場と同様に飯坂温泉のシンボル的存在)は行列ができるほど繁盛していたが、その脇にある小さな鯖湖神社の境内に散らばる碑群には誰も見向きもしなかった。 p.04へ −p.05− p.06へ |