平安の歌人たちをあれほど熱狂させた古跡の現状に芭蕉ほどの失望はなかったにせよ、「忘れられた地」であることには変わりはなく、そこには時の残酷さがあった。誰もいなかった、何もなかった。ただ確かに、古来より語り継がれた人々の「想い」が暗い杉林に漂っていると感じた。それを感じ取り、「想い」を先人たちと少しだけ共有出来ただけでも遥々訪れた甲斐があるというものだ。幸いなことに学術調査と保存のお蔭で芭蕉も知らなかった関跡の現場を見ることができるのだ・・・と静かな林を、幻想の空間を歩き回りながら考えた。ここから南へ2.5km、峠を越えれば関東の山河である。古の都人には「遥か」であったろうが、現代の横浜人には「直ぐ近く」であり、最早、この地は「遥か」で無くなった。「憧れ」を消し去ってしまうという意味で「時は残酷」であった。
  果たして、現代人には古の人々のような心を振るわせる「憧れの地」は存在するのであろうか。距離を縮められ、時間に追われ、「憧れの地」を失っているのではなかろうか。時代に即した新しい「憧れ」「憧れの地」を持たねばなるまい。
  林を抜けると一面の菜の花。鬱蒼とした林間に光を投げこんでいた光源がそこにあった。黄色の向うに芭蕉と曾良が門番をする「白河の関公園」が立派に整備されていた。芽吹いた柳の空には鯉のぼりが舞い、子供達の歓声が響き、結構な人出であった。時間の波に消されるものを大切にすることが文化というものだ。せめて、この公園の整備費のほんの少しを白河関跡の整備に回してもらえたら・・・と勝手な注文をして車に乗った。 
     
       (写真左より:白河関芭蕉記念碑(クリック):白河関の菜の花:能因法師歌碑)


桜街道を通って鏡石町・長沼町へ
  「鏡石町・岩瀬牧場」とカーナビに入力すると、予定していた、東北自動車道を通らず一般道で行けという。明神部落の「白河の関」(旧関)を通らないルートだが、史跡の荒廃ぶりを見た後だけに、これ以上は・・・とカーナビの命に従うことにした。芭蕉たちは旗宿の白河の関から「宗祇戻し」をみて、阿武隈川を渡り、矢吹宿まで一日かけて歩いている。高速を突っ走るより芭蕉の歩いた道に近い方をのんびり行くのがこの旅に相応しい。
 結果は大正解であった。カーナビの命じるままに田園地帯を右に左にと曲った。阿武隈川の川畔を皮切りに、見事な桜街道に何度も出会った。「人波と桜」の並木ではなく、「桜だけ」の並木の美しさに歓声を挙げ、「この風景に出会えなかったのは残念でしたね」と芭蕉さんに語りかけながらの道中であった。
  牡丹で有名な須賀川市に隣接している鏡石町は何もない町。「ただ一面にたちこめた 牧場の朝の霧の海・・・」の歌い出しでお馴染みの童謡「牧場の朝」のモデルになった岩瀬牧場があり、その歌碑も存在するので立ち寄る。町の一角に10万坪の広大な敷地を構える岩瀬牧場が日本初の西洋式牧場として拓かれたのは明治の初めで、場内に往時の牧舎、倉庫、器具などを残しているところが素敵であった。広大な牧場内を歌詞にでてくる「鐘・ポプラ・羊・牧舎」を探しながら歩き回った。満開のさくら・みつまた・チューリップ・水仙・・・がドライブの疲れを休ませてくれた。
  牧場に隣接して鳥見山公園がある。東の入口の一角に桜に囲まれた巨大な記念碑が置かれていた。小松石の碑面の上部に「牧場の朝」と題し、右側に譜面、左側に歌詞が彫られていた。折から、上空を黒雲が覆い、大粒の雨が落ちてきた。慌てて写真を撮って車に逃げ込んだ。
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