能因を追って、約百年後の1146年に28歳の西行は、同族の平泉の藤原氏を訪ねる途上、この地を通過した。「山家集」には「白川のせきにとどまりて、ところがらにや、つねよりも月おもしろくあはれにて、能因が、秋風ぞ吹く、と申しけんをりいつなりけんと思ひいでられて、なごりおほくおぼえければ、せきやのはしらにかきつけける"しらかはのせきやを月のもるかげは人の心をとむるなりけり"」と能因を引き合いに出して記している。芭蕉より遥かに若くしてこの地を訪れた西行が歌枕の地の荒廃を「あはれな月」「関屋をもる月のかげ」と詠んだ所はさすがである。 白河神社から右手、かすかな勾配を登ると杉林の中に空地あり。標識も何もないが、どうやらこの辺が関所の跡で、関守の館や防御の空掘があったところらしい。平泉の藤原一族が頼朝に滅ぼされ、仙台の伊達政宗が死んで北の脅威が消えた。それ以降、「奥州はただの山河になった。奥州の関門を守るは特別な意味を持たなくなった」と司馬遼太郎は述べているのを思い出した。なるほど、もうここは歴史書にしか存在しない、忘れ去られた場所なのだ。関跡で井上剣花坊と大谷五花村の川柳を併刻した碑に出合った。見事にこの地を詠んでいると感心しながら眺めた。 「関所から京の昔へ三千里 剣花坊」 「白河を名どころにして関の跡 五花村」 句碑の下方に眼をやると文学碑がぽつんと座っていた。近づくと、自然石に銅板を嵌め込み、俳人・加藤楸邨の達筆で「奥の細道」の「白河の関」の全文が弱い陽射しを浴びていた。 「心許なき日かず重るまゝに、白川の関にかゝりて、旅心定りぬ。いかで都へと便求しも断也。中にも此関は三関の一にして、風騒の人、心をとゞむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢猶あはれ也。卯の花の白妙に、茨の花の咲そひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し、衣装を改し事など、清輔の筆にもとゞめ置れしとぞ。"卯の花をかざしに関の晴着かな" 曽良」 能因、西行を尊敬する46歳の芭蕉が「春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ」と奥の細道に旅立ち、「心許なき日かず重るまゝ」憧れの白河の関を訪れたのは西行から遅れること約550年の元禄2(1689)年旧暦4月20日であった。桜は散り果て、卯の花(ウツギ・空木は5−6月に白い花を咲かせる。卯月・旧暦4月に咲く花なので別名卯の花。豆腐の絞り粕「おから」も卯の花でややこしい)が道中を飾っていた時節だ。田植えが始まり緑の風が早苗を揺らしていたに相違ない。 「心許なき日々」「旅心定まる」の語句が芭蕉の気持ちを的確に表して素晴らしい。難行であったここまでの日々が思い起しながら、これから先の遥かな旅路への決意が読み取れる。一つの関門を無事に通過できた喜びさえ滲んでいるではないか。しかしながら、この出だし後は、名文だが、心に響かないのは何故だろう。松島の場面と同様、白河の関の場面でも芭蕉の句はない。憧れの関跡に着いても、出発前の空想の世界を脱出できていない。白河で口を閉ざした事情を問われ「長途のくるしみ、身心つかれ、且は風景に魂うばゝれ、懐旧に腸を断て、はかばかしう思ひめぐらさず」(須賀川の場面)と言い訳をしている。が、あれだけ憧れた白河の関だったのに・・・と思うと、ここの描写がそっけなく、なげやりな感じのするのは筆者だけか。 関跡は面影もなく荒廃し、草木や土砂が覆っていた。心を狂わせた想いと現実との乖離。それを目の前にした時の落胆。歌枕とは歌人たちが憧れ、言葉によって作り出した幻想の空間である。確かに地上にある現実の場所なのだが、歌人にとっては、幻想の空間が現実と重なり合って存在していることを芭蕉ともあろう人が見抜けなかったとは思えないが・・・。この地には心を動かす歴史や現実(風景)が少なく、幻想の時間と空間が充満していたからだろう、と考えるより他ない。 憧れの地を訪れてみれば荒廃の極みであった・・・とはよくあることだ。憧れの地が荒れ果てているのを目の当たりにした失望と無念さを、平泉の場面のような描写、「夏草や兵どもが夢のあと」に匹敵する名句でまとめて欲しかった、と叶わぬ願いで碑面を見つめた。 芭蕉に遅れること300年強。私達が訪れた白河の関は「史跡」の名の通り、更に深く歴史の奥に沈み込んでいた。 p.02へ −p.03− p.04へ |