(写真左より:新白河駅芭蕉像:妙閑寺乙女桜:天神社子規句碑)


歌枕の地・白河の関は幻想の空間
  能因を追って西行が 西行を追って芭蕉が そして私達は三人の足跡を追って走った。田植えの始まる前の田園は満開の桜で着飾っていた。
  太平洋側の勿来関・日本海側の念珠関とともに奥羽三関といわれた白河の関は、はるかな上代(5世紀ごろ)、畿内政権が陸奥の武力の溢出をはばむべく設けられた要害である。しかし、平安期には要害は遥かに北方に移動し、白河の関は軍事的意味を失い、代って、歌枕の地として名を馳せる。
  都で知らぬ人のない白河の関が一体何処にあったかについては古来論議が絶えなかった。このことは、名だたる白河の関も実際に訪れた人が少なかったことを示唆している。現在では、江戸期に松平定信(「寛政の改革」で腕を振るった人、幕府に出仕する前は白河藩主)が「ここが白河の関」と決めた旗宿部落にある「新関」が有名になって、「旧関」は忘れ去られた。当然、南湖公園で機嫌を直してくれたカーナビも松平定信の命に従って新関の方に行けという。新関の手前1kmほどのところを右折すると明神部落にもう一つの「白河の関」がある。能因や西行が訪れたのはこちらの旧関の方だが、芭蕉の時代には新旧二つの関跡が存在していたようだ。旧関を先に訪ね、旗宿に泊まって、宿の主人から「白河の関はこの西方にある」と聞かされ、戸惑ったことが曾良の旅日記に出てくる。そんな途惑いを俳友に宛てた手紙に添えた。その句が碑になって白河神社入口左手の路傍に建っている。
               「西か東か先早苗にも風の音 芭蕉」
  関跡前の駐車場に車を停めた。まわりは低い丘陵に囲まれた山峡の細長い場所。「なにやら陸奥のはじまりにふさわしく古寂びている」との司馬遼太郎流の描写になるほどと納得する。
  「白河関跡」の石柱こそ立派だが訪れる人もなく、丘上の白河神社への階段は崩壊寸前であった。荒れた境内を「カタクリ」や「一輪草」の花々が飾り、吹き抜ける風が頼りない関守たちを揺らせていた。階段途中の右手に松平定信が「ここが白河の関」と決めて建てた古関跡碑が置かれていた。更に石段を登ると壊れそうな社殿。左手にある古びた歌碑(明治22年建立)が寂しげに早く来いと誘う。三名併刻の碑面は磨耗激しく読みづらい。
    「都をば霞とともに立ちしかど 秋風ぞ吹くしらかわのせき 能因法師」
    「たよりあらばいかで都へつげやらむけふ白河の関はこえぬと 平兼盛」
    「秋風に草木の露を払はせてきみが越ゆれば関守もなし 梶原景時」

  脇の案内板には歌と共に、能因法師「風狂数奇の歌人。当地にて詠。都と白河関の距離・時間を詠みこんだ著名な歌」、平兼盛「三十六歌仙の一人。歌枕の地を訪れた感慨の詠。拾遺和歌集」、梶原景時「頼朝に従い、文治5(1189)年に平泉の藤原一族を攻める途上当地にて詠」と簡単に経緯が記されていた。
  能因法師は、37歳の万寿2(1025)年以降、二度にわたって奥州を歩いている。能因の歌は京の都で大きな反響を呼んだ。清少納言に「はるかなるもの」(枕草子)と書かせた「道の奥・みちのく」は詩心をかき立てる未知の国、遥かな場所、憧れの地となり、その玄関口の白河の関は歌枕の地として定着した。実際に行った人は少ないに拘らず、都の歌人にとって「白河」は必須の教養科目となり、数多くの歌が詠まれた。


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