いしぶみ紀行−福島−2007.04.22・23−
 
  いしぶみ紀行・福島はみちのくに歌枕の地を築いた先人(能因法師・西行法師・松尾芭蕉・正岡子規)の足跡を辿って、白河の関と信夫文知摺を訪ね、福島市の花見山公園と三春町に花を訪ねる欲張った紀行であった。
  明治26年27歳の子規は芭蕉の足跡を追って2ヶ月間みちのくを歩いた。上野から東北本線で「はてしらずの旅」に出発するに当たり「みちのくへ涼みに行くや下駄はいて」という一句を吐いた。元気な芭蕉の悲壮感漂う旅立ちとは対照的に、病める身の子規は洒落っ気たっぷりであった。私達も「下駄」は履いていなかったが「ちょっとそこまで」の感覚で新幹線に乗った。
  東京を発車した新幹線は、子規よりも何倍もの早さで、みちのくの玄関口・新白河に運んでくれた。駅前には芭蕉さんが出迎えに来ていた。先人の足跡を効率よく廻るためにレンタカーを借り入れた。カーナビは旧式でご機嫌ななめ。この文明の利器のご機嫌には、この後、随分悩まされることになるのだが、「いざや 行かん」と意気込んで出発した。
白河市街地は迷路
  幹線道路を曲ると城下町らしく市内は迷路の連続で、早速カーナビは大混乱、早々に行き暮れる。白河市中央公民館ならカーナビ無しでも、と高をくくったのが敗因。曲り角を通り過ぎて、細道に迷い込む。井戸端会議の三人組のおばさんに尋ねるが、一向に埒が明かない。三人が示す中央公民館の方角はてんでばらばら。挙句の果て、「主人に聞けば」と、亭主を呼び出す始末。やれやれ。
  公民館は細道の奥の丘の上であった。隣の天神さんの境内に駆け込んだ。人気なく、寂れた境内の片隅に、当地を訪れ、この天神山にも登った子規の句が青緑の自然石に刻まれていた。
               「夏木立宮ありそうなところかな 子規」
  再び、迷路の細道を辿り、妙閑寺の枝垂れ桜の名木「乙女桜」を訪う。紅色が空に盛り揚り、朱塗りの山門へと垂れ下がっていた。名木の名に恥じない見事な桜であった。見物人ちらほら。花の旅の出だしとしては上々。
  294号線の大通りに戻って、旭町の「宗祇戻し」史跡を訪ねる。昔の街道を無理やり拡張したのか二度三度と曲がりくねって、果たして正解かとひやひや。目指す三叉路を見つける。4坪ばかりの三角形の空地は「宗祇戻し記念碑」「芭蕉句碑」「川柳碑」「道標」「お地蔵さん」と石碑の群で大混雑。それも古いものばかりで碑面の判読は難しかった。作者自身が愚作と言う句を句碑に残したのでは可愛そう。
              「早苗にも我色くろき日數かな 芭蕉」
 この「宗祇戻し」は「奥の細道」に随行した曾良の「旅日記」に記されている。連歌師飯尾宗祇は白河に立ち寄ったときに綿を背負った少女に出会い、戯れに「この綿は売るか」と尋ねると、少女は「阿武隈の川瀬にすめる鮎にこそうるかといへるわたはありけれ」と歌で答えた。「売るか」と「うるか」をかけた歌だが、その歌の巧みさに、宗祇は舌を巻いて旅の途中で京に戻ってしまったという。因みに「このわた」はなまこの腸, 「うるか」は鮎の腸である。風流な伝説がかろうじて街道にしがみついていた感じであったが、お地蔵様に供えられた柏餅が嬉しかった。
  市内の菖蒲沢にある白河第一小学校に山上憶良の万葉歌碑がある。白河の関への途上だし、と細道に入り込んだのが運のつき。カーナビも迷路に迷い込み、役に立たず。結局、諦めた。
  藩主・松平候の別荘のあった南湖公園は当地随一の桜の名所。見逃すわけには行かない。混雑を予想し、裏口から湖畔に沿って車を走らせ、「南湖十七景」の歌碑を探す。幾つかの石柱状の歌碑を見つけるが、車は数珠つなぎ。降りて見学する訳には行かず車中から写真だけ撮りながら、桜のトンネルを潜リ抜けた。惜しかったが、大混雑の花見は避けて、満開の桜がおびただしく湖畔を飾る名勝を退散。
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