光が溢れていた−横浜市:2007.02−
  若人の青春同様、あっという間に万華鏡の映像は消えた。
  「いま、どの辺りですか」「皮膜の洗浄は間もなく終わり、レンズを装着し、固定して、縫合すれば終了です」30分程度聞かされていた手術時間はとうに過ぎたように思えたがまだ道半ばであった。微かな音であったが手術室にBGMが流れていることに気が付いた。「疲れを知らない子供のように/時が二人を追い越してゆく/呼び戻すことができるなら/僕は何を惜しむだろう」(小椋佳「シクラメンのかほり」)のメロディにように聞こえたのは失った宝石への愛惜のなせる業か。宝石は70年近い歳月に汚れてしまったのだ。医学が失った時を呼び戻してくれるのなら素直に人造宝石を受け入れることにしようと思うと気持ちが落ち着いた。施術者が急に黙り込んだ。いよいよ、レンズ装着、固定の段階に入り、緊張を強いられたようだ。しばらく心音の音だけが手術室に響く。「カチッ」と縫合の音が聞こえたのは気のせいだったのだろうか。左眼にふわっとガーゼが落ちてきた。金属製の眼帯がしっかりと左眼を包んだ。
  「ハマダさん。手術は終了です。成功しました」と施術者は静かに呟いた。
  「ありがとうございました。今年は美しい花が見えますよね」と山本勘助。
  手術室は俄かに賑やかになった。来た時と同様に衛兵交代を済ませて、ストレッチャーで病室に戻った。12時を10分過ぎていた。病室を出て丁度一時間であった。
  翌朝、南東向きの病室に真っ赤な太陽が昇ってきた。「蘇ったのだ」と巨大な光球に感謝の手を合せた。診察室に入り、眼帯とガーゼが外された。光が溢れてきた。「赤ん坊の眼と68歳の眼の同居」に戸惑いながら視力の検査に取り掛かった。贅沢な光のご馳走をむさぼりながら、「眩しいですね。とてもよく見えます」と視力検査表の上からすらすらと読み上げた。「左の裸眼視力0.5、矯正視力1.0」とナースが告げる。どうやら右眼の視力に合せたレンズを装着してくれたようだ。
  診察室に戻る。「問題なさそうです。一ヶ月ほどは視力が安定しません。何となく視界がぼける、焦点が合いにくい、ことがあっても心配は要りません。これからの治療計画を書いておきました。今日、午前中に退院してもらって結構です」と退院の許可が下りた。
  記念に再びの青春(クリック別紙)を残し、許可されたコップ一杯のビールで祝杯をあげて基地に帰還した。退院2日目に山本勘助役にお別れした。
  パソコンと読書を制限する数日の間、「再びの青春」を存分に味わった。
  両眼で朝刊をむさぼるように読んだ。試しに片目をつぶって見てみた。左右の眼に映る白さが違う。左眼の赤ん坊の眼は「この白さが本物だよ。そちらの68歳の白さは偽者だ」と右眼に告げる。一体、自分が認識している色はどちらなのだろうと奇矯な感覚を味わった。
  0歳と68歳を足して二で割れば34歳か。そうだ青春の眼を取り戻したのだと、居間の壁に掛けた「私が選んだ一枚」をしげしげと眺めた。C・モネの「アルジャントゥイュの鉄橋」の複製画とその写生地を訪れた時(1999年)の鉄橋の写真が朝の光に明るかった。
  生涯、光を求めて傑作を描き続けたC・モネは晩年白内障で光を奪われた。悩まされながらも絵筆を捨てず、あのパリ・オランジェリー美術館の巨大な壁面を飾る大作をものにした。モネは生涯にわたって青春を貫いたのだ。彼がこの手術を受けていたらどんな作品を残したであろうか・・・と思いつつ、彼の生きた時代が早すぎたと、訪れた幸運に感謝した。
  大げさに言えば、瞬間の激しい痛みに耐えただけで、世界が変わった。青春を取り戻した気分であった。68歳のおいかがまった青春には、少し重い荷物だが、一途に求めるものが未だ残されている。それを求めて、「青春とは人生のある期間を言うのではなく、心の様相を言うのだ」をお供に、ひたくれないの道を歩かねばなるまい。                 (2007.02.記)
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