序に見ておこうと「野中婉歌碑」を探した。折角此処まで来たのだからと軽い気持ちで探していたら、「野中兼山幽閉遺跡」の記念碑が目に飛び込んできた。小学生でも解る様に易しく書かれた案内板を見てまさかの出会いに驚いた。そこには、江戸期初期の土佐藩家老で藩の財政改革と土地開発に数々の業績を残した野中兼山のこと、その失脚後に兼山の8人の子供たちがこの地に40年間も幽閉されていたこと(宿毛でも兼山は長く禁句で最近になって幽閉地が特定されたこと)、四女の婉が兄弟を失ってゆく悲しみの歌(つらなりし梅の立枝枯れゆけば 残る梢の涙なりけり)が歌碑になっていることなどが記されていた。迂闊にも、高知出身の小説家・大原富枝の「婉という女」は読んでいなかったために、その主人公が歌の作者であることを知らなかった。彼女の過酷な運命を偲ぶには案内文は短すぎ、悔しい訪碑に終った。予想外の出会いを土産に中村駅から特急に揺られ高知に戻った。
大原富枝(1912−2000)− 高知県長岡郡吉野村(現本山町)に生。高知女子師範学校に進学。喀血により中途退学し療養生活の傍ら文学を志す。上京し「文芸首都」を中心に活躍。1957年に発表した代表作「婉という女」で一躍脚光を浴び、毎日出版文化賞、野間文芸賞等を受賞。その後も旺盛な作家活動を続けるも、「小説・牧野富太郎」執筆中、心不全で逝去。故郷に「大原富枝文学館」を持つ芸術院会員。
「婉という女」−悲劇というにもあまりに酷薄な女の一生の話である。兼山の永眠後、残された家族は土佐の西の果て宿毛に幽閉される。「門外一歩」も許されない中、兄弟は次々に若くして世を去る。男系が途絶えても、娘3人と母は実に40年も世間と隔離された。3歳で閉じ込められた四女の婉が、父が修めた儒学に打ちこみ、恋人とも死別し、野中家の誇りを守るべく生き続ける日々が、女性ならではの視点で、簡潔で感情を抑えた筆致で描かれる。「婉という女」の題名に相応しく「女の一生」を見事に書き尽くしている。旅を終え、小説の舞台−宿毛・高知・四万十−を思い出しながら読んだ感動の一巻であった。映画やテレビドラマにもなり評判を呼んだのも不思議ではない。


「功名が辻」舞台を通り抜ける−高知市−

  旅の四日目。残された碑の数が多いので、朝練で少しこなしておかなければ・・と少し明るくなるのを待って独りホテルを飛び出した。山内神社の森はまだ暗かった。散歩の人々と挨拶を交わしながら碑を探す。明治期、高知の生んだロマン派文学者で島崎藤村と交流の深かった馬場孤蝶の句碑(一輪ノ皎月中天ニ輝クヲ見タリ)を探し当て、神社の横を流れる鏡川の河原に出て爽やかな秋の空気で体を充たす。河畔の島崎藤村・馬場孤蝶交歓記念碑を見て、近くの高野寺へ。入口左脇に板垣退助生誕地碑。塀際に小さな芭蕉句碑(蓬来に聞かはや伊勢の初便)、その後幾つかの碑を訪ね一汗流した。
  朝食後、最後の訪碑に出る。寺田虎彦記念館(旧居)で記念碑(天災は忘れられたる頃 来る)を見学して、高知城の堀を渡り城西公園へ。公園西側に高知城を見上げるようにずらりと文学碑が並んでいた。
寺田虎彦文学碑(「花物語」一節)、馬場孤蝶句碑(鯨去る行方を灘の霞かな )、竹本源冶詩碑(「逝いて帰らぬ」)、植村浩詩碑(「間島 パルチザンの歌」)
と4基が夫々個性溢れる石に刻まれていて壮観であった。お堀で羽根を休める一羽の青鷺がひとつの旅の終りが近づいたことを告げていた。

(高知市城西公園寺田文学碑・高知城・はりまや橋・旅の終りの鷺−青字はクリック拡大−
  高知城本丸への坂を登る。鬱蒼とした樹間から時々白い城郭が顔を出す。近づくに連れて城の高さが一層増してきたので本丸登城は諦めた。
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