ここを見なければ足摺岬は書けなかったろうと想像をしながら、無人の浜辺に「さらば夏の強き光よ」とボードレーヌの詩句を置いた。「マロウド」何処かで耳にした単語だが思い出せない。マロウド、マロウドと呪文の様に唱えながら恐ろしい急階段をよじ登った。帰宅して思い出した。マロウドは軽井沢にある素敵なホテルの名前たった。後日、「まろうど」とは「客人」「稀人」の意であると教えられたのを契機に記念の詩−巻末に掲載を書いた。
田宮虎彦(1913-1988)−戦後「霧の中」で評価され、「絵本」では毎日出版文化賞を受賞。庶民的なヒューマニズムを描き、暗い体験を越えた一途な人生願望を清冽な叙情で名作に残した。昭和30年代に癌で失った夫人との往復書簡・「愛のかたみ」で一躍時の人となった。青春の彷徨の中で出会った「人間は孤独を超えることが出来るということである。人間に孤独を超えさせるものは何か。私は、それが愛だと思う」がノートに残る。愛妻との別れが自殺の契機となったのか。疑問は未だ解けない。
  帰途は岬の西側の国道27号線を辿ることにした。国道とは名ばかりで遍路道に近い細道が断崖絶壁の中腹を這っていた。鵜の岬の突端に建つ高浜年尾句碑(黒潮へ傾き椿林かな)を見たいばかりに恐る恐る進んだ。途中の怖さでキュンと痛くなったお腹は土佐清水の港で漸く収まった。ここからは立派な観光道路が奇岩の名所・竜串海岸に案内してくれた。
 初めて見る奇岩群が海岸に広がる。自然の造型の見事さはスケールが大きすぎ写真には納まらない。海中の珊瑚礁も台風の余波が覆い隠していた。収穫は二つのいしぶみで、出会ったのはお遍路の老夫妻だけであった。
 「貝殻は私の生きていたあかし私が生きていなかったら私の貝殻があるわけは  ない」(武者小路実篤)「龍串は奇岩並めて春の潮」(高浜年尾)

竜串奇岩・叶崎燈台・宿毛小学校北見歌碑野中兼山と婉歌碑−青字はクリック拡大−
  宿毛市への海岸道路を更に進むと叶岬。ここも燈台のある小さな岬の景勝地であった。吉井勇歌碑(土佐ぶみにまずしるすらくこの日われ うれしきかもよ叶崎見つ)があるので立ち寄って見たら、野口雨情詩碑(叶崎で波音聞いた・・・)まで出迎えてくれた。「おやつ、おやつ」連発してドライブを続けたが、「おやつ」は見付からぬまま宿毛市に入った。


最果ての地で−宿毛市−
  高知県の西の果ての宿毛市に足を運ばせたのは紀行直前の情報であった。「橋田東声の最初の妻は有名な歌曲「平城山」の作詞者で歌人・北見志保子。宿毛市出身」と知れば通り過ぎるわけには行かない。この寄り道が結果的には素晴しいお土産をくれた。
  宿毛市市街の北の隅に市役所に並んで宿毛小学校。そこが北見志保子生誕地であった。校舎の奥に小さな記念碑、校舎の横手に歌碑が建っていた。
  「山川よ野よあたたかきふるさとよ こえあげて泣かむ長かりしかな」
彼女の波乱万丈の生涯を偲ぶ縁となる歌碑は心に残った。
北見志保子(1885−1955)−母校・宿毛小学校で教鞭をとるも、小学校の同窓の橋田東声と結婚(後離婚)し、上京。東声の「覇王樹」を経て「草の実」を創刊主宰。与謝野晶子に劣らず情熱的な恋をした女流歌人として活躍。「人戀ふはかなしきものと平城山にもとほりきつつ堪へがたかりき/古もつまに戀ひつつ越えしとふ平城山のみちに涙おとしぬ」この秀歌は二番目の夫となる浜忠次郎との恋に悩む志保子が奈良の磐之媛(いわのひめ)御陵を訪れた時の詠。歌人・北見志保子は忘れ去られたが平井康三郎作曲の「平城山」は今も人々に愛唱されている。
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