私をこの地に案内したのは学生時代に読んだ田宮虎彦の小説「足摺岬」の強烈な風景描写であった。その風景に出逢いたいと逸る気持ちで、門番するジョン万次郎像に挨拶して椿の遊歩道に入る。万次郎の数奇な命運に思いを馳せて歩くと、展望台の手前で水原秋桜子句碑が木漏れ日を浴びていた。秋桜子好みの簡素な自然石に「岩は皆渦潮しろし十三夜」と小さな文字が散っていた。
  石段を登る。眼下には「四国最南端の岬。長い歳月かけて出来上がった岩壁には荒波さかまく黒潮。ゆるやかに弧を描く太平洋は限りなく美しく、高さ80mにもおよぶ断崖絶壁は思わず飲み込まれそうになる迫力を持つ」と案内書にある通り、絵葉書に仕立てたい風景が広がっていた。海は青潮と黒潮とに二分され、円く沖に広がっていた。断崖の上には燈台が直立不動で風に向かい、その下では波が砕けて白い飛沫を撒き散らしていた。青春時代から遥々辿ってきた道を絶景に重ね、何度もシャッターを切った。燈台と反対の東側を見ると「天狗の鼻展望台」に昭和天皇の黒御影石の歌碑が光っていた。

      足摺岬燈台田宮文学碑・白山洞門・マロウド浜−青字はクリック拡大−
  展望台から燈台まで5分ほどは強風に腰を曲げた椿の低木の細道。燈台前の狭い芝生の園地には待望の碑が蹲っていた。黒色の自然石の年尾句碑(足摺にはじまる土佐の春かとも)は遠慮がちに低く、白御影石の田宮虎彦文学碑は堂々としていた。珍しい横書きの碑面には
 「田宮虎彦先生文学碑 砕け散る荒波の飛沫が崖肌の巨巌いちめんに雨のよ    うに降り注いでいた」
と「足摺岬」の一節が骨太に刻まれていた。
  小説では碑文のあと「巨大な石の孟宗をおし並べたように奇岩が海中に走っている。私はそれをじっとみつめた。だが、私の心に、死のうといった気持ちは不思議にうかばなかった。あまりに日差が明かるすぎたからであろうか。・・・」と続き読者を魅了したのだ。物語は自殺場所を探しに訪れた青年が宿に集まる人たちとの交流を通して自殺を諦める四十ページほどの短編。歴史の犠牲となって生きなければならない人間たちのうしろ姿を垣間見せてたまらなく哀切を帯びている。
  この小説が足摺岬を自殺の名所に仕立てあげた。台風が接近すると態々この地に足を運んで来る数奇な人々が居ると四万十の人が言っていた。晴天の今日とは全く別世界の、凄まじい光景が広がり死神が跋扈する怪しい雰囲気が漂うのだろうかと想像する。断崖の傍には「飛び込む前に電話をください」という立て札や無料電話が設置されていると聞いたが、近づく勇気はなかった。
  「生きることは辛いものじゃが、生きておる方がなんぼよいことか」と自殺を思いとどまる「足摺岬」を書いた田宮虎彦が、昭和63年に脳梗塞で倒れ、自殺を選び、76歳の生涯を閉じた衝撃的な報道は忘れられない。夏の名残の日差しが降り注ぐ中、遠くなった時たちとの会話に暫らく夢中になった。
  更に小説のシーンを求めて、「白山洞門」までのアップダウンのきつい細道を歩く。展望台、燈台に溢れていた観光客は誰もついて来ない。洞門の上から急な勾配の石段を無人の海岸に向って50mほど一気に転げ落ちた。案内書には「高さ16m、幅17mで波の浸蝕でできた典型的な海蝕洞門。日本一の規模」とあった。洞門では海が白い牙を剥いていた。隣の「マロウド浜」の景観にも息を呑む。海の青さは一段と濃く、砕ける波の白さが眼に焼きつく。燈台まで来て帰った人は惜しいことをしたものだ。ここにはめったに見ることが出来ない色合いが広がっているのに。「日本ではないみたい」と呟く声が波音に混じっていた。
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