城址上林文学碑・中村高校上林と東声碑・中筋小東声歌碑・佐田沈下橋−青字はクリック拡大
  四万十市の西の端の有岡部落は歌人・橋田東声の故郷。川崎市の善正寺に歌碑を訪ねて以来、この歌人と少し関りを持った。部落を横切る宿毛街道の脇に東声の菩提寺・真静寺があった。人気無い境内に歌碑を探して右往左往。小さな歌碑(遠き樹にひぐらしのこゑ啼きそろひ ゆうべともなれば母のこひしき)は見つけたが、墓は見当たらなかった。生誕地への道は細く急な坂道を登る山上なのでパスし、代わりに、母校・中筋小学校の歌碑(ふる里にかへりきたりてあさおきて まづみる前の山のしたしき)を小雨に濡れながら訪ねた。四万十市に架かる名物・赤鉄橋を遠望する河畔に大江満雄の「四万十川」詩碑を訪ねたのを最後に、今日のいしぶみ紀行は終った。
橋田東声(1886〜1930)−旧中村市有岡が生誕地。高知の第七高等学校を卒業後上京して東大に入学。伊藤左千夫を訪ね、小説等を「アララギ」に発表。大正四年喀血し、病床で斎藤茂吉『赤光』を読み作歌を志す。昭和8年「覇王樹」を創刊。うち続く肉親の死、歌人の妻志保子との離別、という不幸にも見舞われたが、閑雅で清澄な名歌をのこした。代表歌集『地壊』。川崎市麻生区善正寺にも分骨の墓と歌碑あり。
  夕暮まで少し時間があったので、土佐藩の家老・野中兼山によって造営された、安並部落の水車を見物に出かけた。黄色の田圃の中に10連近い水車が立ち並ぶ風景は圧巻。土手の紫陽花が満開ならば申し分なしだったが・・・。
  「四万十郷土料理と銘酒・土佐清水」で出来上がった耳に「台風13号は長崎沖を今晩通過、高知には大雨警報」とテレビが告げた。今夜には佐田沈下橋は水面下か、と早い通過を願って眠りに落ちた。


田宮虎彦文学碑を訪ねて−足摺岬−
  台風が長崎県を日本海に抜ける頃、こちらは夢の中。早朝に目覚め太平寺の芭蕉句碑と四万十川に挨拶をして一汗流し、足摺岬に車を向けた。
  暫らくは四万十川に沿って走る。快晴が戻ってきて緑の堤防が眩しい。河口近くは川幅1km以上で四国第二の川に恥じない。土佐清水市への峠を越え、海岸に出る。高みから見る太平洋の輝きに息を呑む。時々、車を停めて絶景を拝む。土佐清水市の市街地を過ぎると岬の西側を通る国道27号線と椿の道・スカイラインの二手に別れる。椿の道を選んだ。岬の背骨を切り開いただけにアップダウン、ヘヤピンカーブの道が岬の突端に落ち込むまで続いた。
  四万十市からの道中、岬の突端の38番札所に向って歩くお遍路さんを何度も追い越した。夜明けを待って宿を歩きだしたのだろう。この山中のアップダウンでも文明の利器を頑なに拒んで難行苦行を選んだその姿に、車中から頭を下げ、無事の満願成就を祈った。
  初秋から晩夏に戻った岬の探訪は金剛福寺から始めた。岬の突端に張り付く金剛福寺は38番札所で千年近い歴史を持つ格式の高い南海の名刹。お遍路さんに交じって、こちらは快適なドライブだからご利益は少なくても・・と思いながらも、旅の平安を祈り、境内に散らばる句碑を探す。
  高木晴子句碑二基は何れも見事な自然石に刻まれて風格を誇っていたし、芭蕉句碑は多宝塔の片隅で200年近く強風に耐えていた。
  「渡海僧おもふ卯波の沖を見る」(高木晴子
  「夏潮に珊瑚の吐息ききとむる」(高木晴子)
  「けふはかり人もとしよれ初時雨」(松尾芭蕉)

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