(黒潮町入野海岸・入野松原上林暁文学碑・黒潮町上林暁旧家)−青字はクリック拡大− 清流・四万十川に橋田東声のふるさとを訪ねて−四万十市− 人口4万人弱の四万十市は2005年に中村市と周辺の町が合併して出来たので耳新しい。市の中心街も土佐一条氏の時代に京都を模して区画され「土佐の小京都」と呼ばれていた古い町並は殆ど姿を消して雑然としていた。ここは上林暁が青春を過した町、歌人・橋田東声が生まれた町なので清流・四万十川観光より、先ず、いしぶみをと二人の母校に向った。 中村高校は中村駅から少し離れた市街地の中心に聳える中村城址の麓にあった。校門を入ると右手の芝生に二人の文学碑がちょこんと座っていた。 「文芸は私の一の芸 二の芸 三の芸である」(上林暁) 「ゆふ空に片照る雲のあゆみおそく 帆をおろしたる帆柱多し」(橋田東声) 詩人・草野心平が作詞した校歌碑に名門校の匂いを嗅ぎ、中村城址へ。平地から直立する100mほどの小山への登り道には迷った。城下町らしく道は入り組み、やっと見つけた木下闇の細道を狭い頂上に這い登った。この地に生まれ、大逆事件で処刑された幸徳秋水の漢詩碑を訪ね、その奥手に上林暁文学碑を見つけた。白御影石の簡素な碑面には 「四万十川の 清き流れを 忘れめや」 と優しい文字が乗っていた。後に廻ると略歴に添えて「時流に媚びない精高な作風と、その誠実な人となりは、ながく人々の心をうるおすであろう。四万十は上林さんのこころのふるさとである」とあった。「四万十川幻想」には「前に四万十川の鉄橋が見え、うしろを振りかえると、旧中学をへだてて、後川が見える」と書いてあったので、ここからの眺望は抜群だろうと楽しみに山を登ったが、まだ夏の城址は旺盛な木々の茂りで眺望を邪魔した。中村城を模した郷土資料館脇から高浜年尾句碑(京の名の山あり幡多の春秋)を探しながらゆっくりと山を降りた。 四万十川は全長200kmで吉野川に次いで四国第二の川。本流に大規模なダムが建設されていないことから「日本最後の清流」と呼ばれている。この川には沈下橋(水量が増した時に水面下に沈む橋。水の抵抗を少なくするため欄干がない)が50近くあり人々を誘う。珍しい橋なので見ておこうと堤防を走った。県道なのに一車線の細道。それも崖上とあって緊張の連続。眼下の四万十川は大雨の影響で水嵩が増し流れも速い。濁流に遊覧の屋形船が流されて行った。「天下の清流」も台風来襲には勝てない様子。 「佐田沈下橋」には観光バスが一台停まっていた。橋に向って坂を下りると30人ほどの客が満足気に引揚げてきた。期待が高まった。曲り角を一つまがると巾4mほどの橋が川面すれすれに対岸に伸びていた。あと少しで川の中に沈下する。清流が拝めないのならせめて沈む様子を・・と思いながら橋を中央付近まで歩いた。地元の人は車で渡るが、真直ぐ前を見て、決して川面に眼をやらない・・と都築さんに教わった。なるほど、川面を眺めると直下の急流に今にも呑み込まれそうな錯覚に陥る。余裕のポーズで記念写真を一枚。更に上流の高瀬沈下橋では佐田沈下橋より更に狭い(3m強)橋が230mの川を横切っていた。私同様に川岸の彼岸花の群落が暗い空を見上げていた。それにしても、こんな橋を作ったのでは船の往来は出来ないし、岸辺の道は細道だし、一体、上流の人々はどの様な暮らしを・・・と左右に迫った山塊を眺めながら沈下橋を後にした。 P.03へ −P.04− p.05へ |