ホーム際の倒れそうな山百合に狂った行程を重ね、こちらも懸命に立ち直りを図った。30分を経過して「線路の点検中、終り次第発車の見込み」と待望の声。上りの特急が入ってきた。どうやら線路は無事らしい。何処が危険個所かと動き出した車窓に張り付いている間に、海岸線に出て、目的地の土佐入野駅に無事着いた。
四万十市の手前、高岡郡黒潮町の土佐入野は「ホエールウオッチング」の楽しめる太平洋を臨む田舎町。呼び込んだのは「上林暁」だが出迎えはなかった。駅にも、駅前にも人の気配はない。教えられたタクシー会社に電話して、暁の故郷巡りの案内を頼んだ。
上林 暁(1902−1980)−尾崎一雄と並び戦後期を代表する私小説(心境小説)の作家。田ノ口村(現・黒潮町)下田ノ口に生。高知三中から熊本の第五高等学校へ。「上林」の筆名は、熊本の下宿場所・上林町に由来する。東大を卒業後、1938年の「安住の家」でその作風を確立。1939年、妻・繁子が精神病を発病し、1946年に亡くなる。その間、「聖ヨハネ病院にて」などの"病妻もの"を書き、広く読者に迎えられた。本人も1962年に脳出血で半身不随となり、妹・睦子の献身的な介護と口述筆記により「白い屋形船」等の小説を書き継いだ。生活上の不遇を背景としつつも、それに負けない向日性をストイックで端正な文体が支える。日本芸術院会員。
 
  駅から一直線に名所・入野松原に飛び込む。モダンな「あかつき館(一画に上林文学室)」が堂々と座っていた。その近くに文学碑。都築運転手の差し出すゴルフ用の大きな傘に助けられ、自然石と黒御影石を組み合わせた碑をじっくりと眺めた。遥々とこの地に足を運んだ甲斐のある素晴しい文学碑であった。「上林暁生誕の地」の銘板は川端康成の書。黒御影石には
  「梢に咲いてゐる花よりも 地に散ってゐる花を 美しいとおもふ」
と長く病床で闘った暁を偲ばせる文字が白く光っていた。台風の前触れの強風が松の枝を揺さぶり、ゴゥと音を立てる、白砂の海岸には白波が狂い太平洋が霞む。「赤海がめ産卵地」の案内坂が強風を避け縮こまっていた。「地に散ってゐる花を美しいとおもふ」はそんな光景の中で静かに胸に沁み込んで行った。暁の生涯は今日の入野海岸のように厳しかったが、懸命にそれに耐え、生を紡いだ姿が強く読者を揺さぶったのだ。墓参してお礼を述べようと車を墓所に向けてもらった。
  4kmは続く松林の横には当地名産品「ラッキョウ」の畑が広がる。一帯は高知国体の開催で整備されたと都築さんが自慢するのを聞いていると、小山の麓に着いた。小さな案内の石柱が一面の花々に埋もれていた。「山を登ると墓所があります」と教えられた通りに急な山道に露草を踏み、よじ登った。
  上林暁の本名は「徳廣巌城」だが百基ちかく散らばる墓碑の殆どが「徳廣」名の墓碑。茫然として居ると、墓地の一番奥から「上林暁墓所」の立札が手招きしてくれた。白御影石の簡素な、如何にも静かに生を養ってきた暁らしい墓であった。一段下に青御影石の「徳廣伊太郎」墓を見つけた。墓碑の左側に
  「父イタロウは、海や松原や川口や田圃の見える、見晴しのいい、小さな岡の   上に眠っている」
と暁の文章があった。「見晴しのいい」風景を見る余裕もなく急な細道を足元ばかり見ながら下った。
  墓所から500mほど北に行った所に生家が保存されていた。表札もなく都築運転手が居なければ判らなかった。「了解を戴いていますからどうぞご覧下さい」とのご接待。静かに門扉を開いた。旧居は昔の藁葺きの農家様式で保存されていた。花々で飾られた庭の中に小さな赤い薔薇一本。暁の化身か・・とカメラに収め、「ありがとうございました」と呟いて、最近建立された文学碑に走ってもらった。そこは巨大な室内競技場の脇で着いた途端に豪雨が落ちてきた。飛び出して小説「蛎瀬川懐郷」一節を刻んだ文学碑をひと回りして車に逃げ込んだ。数分でまたまた高知の雨粒の大きさを実感する破目にあった。親切な都築さんに四万十市まで送ってもらって山中での遅れを取戻した。


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