坂口安吾(明治39・1906年−昭和30・1955年)
昭和期の小説家。新津
(現・新潟)市生。旧制新潟中学に進学するも中途放校。その時机の蓋裏に「余は偉大な落伍者となっていつの日か歴史の中によみがえるであろう」と彫ってきたという逸話の持ち主。「堕落論」で華々しく文壇にデビュー。太宰治・織田作之助などと並んで「無頼派」として戦後の流行作家となる。推理小説でも傑作「不連続殺人事件」を発表。無理な仕事から精神的に病み、薬物に依存して作品は途絶えた。「孤独は私のふるさとだ」と書いた安吾は昭和30年脳溢血のため急逝した。筆者は「堕落」書名を恐れて近づかない。
護国神社の境内にあると聞いてきた北原白秋の詩碑は迷った。長い参道を注意深く辿るが忠魂記念碑ばかりで本殿に行き着く。県民会館の吉野秀雄歌碑の事もあったので不安がよぎる。社務所飛び込んだ。美人の巫女さんが丁寧に教えてくれた詩碑は安吾文学碑に連なる小径で漸く発見した。「海は荒海向うは佐渡よすずめ啼け啼けもう日はくれた・・・(「砂山」全節)」を刻んだ白御影石の碑面に木漏れ日が落ちていた。「花嫁人形」詩碑と同様のデザインで、お金をかけた詩碑としては失敗作。またまた、期待はずれ。碑文にある「砂山やぐみ原」は何処にもなかった。「本当に砂山やぐみ原はあったのでしょうか」帰ったら白秋さんに聞いてみようと詩碑を後にした。帰って聞くと「信濃川は上流の分水町で分流が完成し、新潟市への水量は激減、海岸の砂浜は著しく浸食された」とのこと。どうやら角栄さんが犯人らしい。
護国神社から八一の母校・新潟高校へ歩く途中で中央高校に立ち寄った。犬童球渓は中央高校の前身の新潟県立高等女学校で2年強の教鞭をとる傍ら、名曲「旅愁」「故郷の廃屋」等の作品を世に出した。その縁で建碑された詩碑は玄関左手の校舎の前あった。青色の縞目の石に黒御影石を嵌め込んだ見事な造型。碑文は夕暮の弱い光線にもくっきりと浮んでいた。「更け行く秋の夜旅の空のわびしき想いにひとりなやむ・・・(「旅愁」)」旅の中でのこの碑文は心に沁み、無愛想な白秋碑の後だけにこの詩碑が一層いとおしく感じられた。デジカメ写真は光線が弱く失敗作であったが、胸のカメラには鮮明に映し撮ることが出来た詩碑であった。
最後の訪碑は、新潟駅前のホテルへの途上で、新潟市の名所・万代橋畔のホテル・オークラの前の高浜虚子句碑。細長い黒御影石に白色の自筆が踊り、句「千二百七十歩なり
露の橋」がくっきりと浮ぶ。
その横では低い堤防で仕切られた信濃川がゆっくりと梅雨の雨水を運んでいた。レガッタの練習に余念のない若者の姿に己の青春を重ねて見つめていると、重要文化財の石橋の上空を夕暮の光線が走って行った。300mの川幅に成長した信濃川の景観は一級品。
虚子に倣って歩数を計ることにした。今日の務めを終えた人々に混じって歩く。450歩で右岸に到着。「1270歩」をどう解釈すれば良いのか、「着物を着ての歩行で歩幅が小さく、かつ、往復の歩数だった」「昔の川幅は広かった」と暫らくは疲れを忘れて喧々諤々、子供に戻った。「奥の細道」の芭蕉同様駈足の新潟であった。
夕食時の冷酒「越の誉」は「銘酒の新潟」に恥じぬ味わい。疲れが酔いを加速して、旅のメモを残す暇もなく眠りに落ちた。(紀行日:2006.07.30)付録:下記の写真をクリックすると素敵な宝石がもらえます
                       

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