そこは越後の大地主伊藤氏の別邸だった所で、八一は晩年の10年間をこの地で過した。疎開してきた八一のために坂口献吉が準備した住居で、広大な敷地の奥の棟には伊藤辰治(新潟大学学長)、表の洋館に「面会謝絶、寄付謝絶,揮毫謝絶」と掲げて八一が住んだという。
折から、書家としての八一の講演会の最中であったが、何が何でも見学せねばと靴を脱いだ。数十人の受講者が講師の話に耳を傾けている横を恐る恐る庭に進んだ。
八一がこよなく愛した庭は京風の枯山水で静寂が漂う。奥まった一角に小振りな石が隠れていた。碑面には「かすみたつ はまのまさごを ふみさくみ かゆきかくゆき おもひぞわがする」とあった。流麗な文字といい、青みがかった石といい、周りの雰囲気に調和し、溶け込むように配置されていた。
奈良の秋篠寺や般若寺の八一の歌碑を訪ねたことを思い出させる雰囲気が漂っていた。ここへ移り住んでからの10年間は書的生活が中心でこの地で残された歌は少ないが、この歌は当地での傑作のひとつだと思う。
講習会開催に合わせてか展示も豪勢で各部屋には八一の書が溢れていた。学芸員は歌碑を見終えた遠来の客を態々一枚の書に案内してくれた。そこには庭の歌碑の原本が展示されていた。八一は歌碑の制作にも一家言を持っており、石工泣かせであったという。紙面には朱書によって石工への注意書「歌碑として彫刻せしむるために特に筆画訂正を加えたるものなり。彫工は熟練なるを要す。文字行間のあきは絶対にこの原稿の通りにすること」とこと細かく指示されており、自己の筆跡をよい形で忠実に残そうとした気概が示されていた。
二階に登って書の代表作「海潮堂」の扁額を見学。「強烈な個性的な書。教科書のお手本のように整った字ではなく、すなおで、安らかで、美しいもの。師承及び習得した古典はなく、孤独独歩である」と書家は評しているが、書の鑑賞力がないので猫に小判であった。二階からの庭園の眺めは格別。今少し長居したかったが「主逝きても なお主居るがごと 秋艸居」とメモに残して辞去。
博物館から北へ。西海岸公園を目指した。複雑な住宅街の道を何度も曲がり松林を探す。10分ほどで公園の東端が見えた。公園と言っても幅100m長さ3000mに近い見事な松の防風林。細い遊歩道を辿って八一歌碑を見つけた。「みゆきつむ まつのはやしを つたひきて まどにさやけき やまがらのこゑ」がひっそりと建ち、「雪」の代りに「緑」が降っていた。
砂丘は消えたがこの広大な繁みは残り、今も、日本海の北風から市民を護っていた。ここまで来たからには日本海に挨拶して帰らなければと海岸に降りた。
「海はすこぶる青いが砂浜が何処に消えたか」が第一声。佐渡を探す。遠くに高速船らしきものが幽かに見えたが佐渡は水平線に沈んでいる。海は凪ぎ穏やかな鏡であった。海からの微風を楽しみながら「荒海や佐渡によこたふ天の川」の芭蕉に倣って現実にはない風景を幻視しようと佇んでいた。「瞼閉じ佐渡は何処と炎天下」「晴天に天の川渡る天道虫」とメモに残した。
海岸にあった日時計は15時近くを指していた。
八一記念館を目指して引き返す。記念館は期待はずれ。白壁、二階建ての外観は八一に似合っていたが、展示品が貧弱で名前に負けていた。前庭の歌碑「おりたてば なつなほあさき しほかぜの すそふきかへす ふるさとのはま」を拝見して、松林に戻った。この頃から、残された行程、「護国神社碑群」「新潟高校」の碑達に巡り会えるかと心配になる。まだ、日は高いが時刻は4時を過ぎた。日曜日だし、校門が閉まっていたら・・・と重要碑との面会時間が気になって早足になった。
海岸公園に続く護国神社で松尾芭蕉・北原白秋・坂口安吾の探訪に走り廻った。疲れた始めた足であったが、八一の母校旧制新潟中学(現・新潟高校)の校庭から歌碑が手招きするので応じた。校門を入り迷わず右手の歌碑「ふなびとは はやこぎいでよ ふきあれし よひのなごりの なほたかくとも」(宮中歌会始応制歌「船出」)に取り付いた。八一の指示だろうか、2mもの根府川石の中央に色紙大の大きさで美しい筆跡が夕暮に浮んでいた。重い足で訪ねた甲斐があった。

P.02へ             −P.03−          P.04へ