幼い頃の八一が遊んだ白山神社を通り抜け、古町1番町の芭蕉句碑「海に降る雨や戀しきうき身宿」(浮身塚)を手始めに、古町・西堀の二つの通りを行ったり来たりしながら歩いた。初めは寂れた商店街で、昨今の地方都市の荒廃を見せつけられたが、中心に近づくと次第に活気を取戻しほっとした。
ここから先の散歩は歌人・会津八一が中心なので先ず略歴を紹介しよう。
会津 八一(明治14・1881年−昭和31・1956年)
新潟市古町通に生。現新潟県立新潟高等学校を経て、明治39年早稲田大学英文科卒業。早稲田大学で教鞭をとる傍ら、「南京新唱」「鹿鳴集」などの奈良を中心にした歌集を著し、「古典的で清新な歌風」で大正・昭和期を代表する歌人。戦前は仏教美術史研究家としても活躍し、戦後は書家としても名を成す。妥協を許さぬ人柄から孤高の人として知られる。文学博士。早稲田大名誉教授。新潟市名誉市民。雅号は「秋艸道人」「渾斎」。

八一生誕地歌碑・瑞光寺・八一墓・瑞光寺八一歌碑と虚子句碑・博物館八一歌碑
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八一は古町通4番町に明治14年8月1日、「会津屋」の屋号を持つ新潟一の料理屋の次男として生まれた。誕生日から「八一」の名。生家は、今は、洋装店など4軒の店が並ぶ広大な敷地であったという。生家前ではお祭の準備の最中で歌碑「ふるさとの はまのしろすな わかきひを ともにふみけむ ともをしぞおもふ」は場違いの邪魔者扱い。碑石は立派だったが歌碑は周囲に馴染まず興醒めであった。
生家の裏口があった隣の西堀通りに向う。この通りは「柳都」の中心で、河畔を柳で飾った運河が走っていたが、戦後埋め立てられ、今では新潟市の幹線道路。運河がなくなった今も数十軒の寺院だけは昔の通り甍を並べている。その内の一軒が瑞光寺である。
寺の入口に建つ「不転観音瑞光寺」の「伸び伸びした爽快な楷書」の石柱や本堂の「雄渾な筆さばき」の「瑞光精舎」の扁額は八一の書であるがその良さがわからず素通りして墓参から始めた。
八一は昭和31年11月21日、新潟大学付属病院17号室で心臓環状動脈硬化症のため、76歳の生涯を閉じ、菩提寺・瑞光寺で葬儀、早稲田大隈講堂で告別式が盛大に執り行われた。
辿り着いた八一の墓は一般の墓域とは別格扱いで本堂右脇に独りで座っていた。墓碑には「渾斎秋艸道人墓」と自選の墓碑銘が謹厳と刻まれ供花は新しかった。東京にある分骨された奥津城同様に、墓域は馬酔木で飾られ簡素で美しいお墓であった。念願を果たしほっと一息。
振り向くと欅の大木の下にいしぶみ二基が静かに奥津城を見守っていた。2m近い大きさの八一の歌碑に彫られた歌「ふるさとの ふるえのやなぎ はがくれに ゆうべのふねの ものかしぐころ」の新潟を代表する風景(古江=古い水辺・柳・小舟)はなくなってしまったが、東京の奥津城にある歌碑は彫が浅く苔むして残念だったのに較べて、こちらのは良かった。八一の書の研究書によれば「全体の調和が素晴しい。字粒の大小と渇筆の変化でいささかの不自然さも感じさせない」とある。傍らに虚子の追悼句碑「三羽居し春の鴉の一羽居ず」は虚子好みの簡素な風情であった。
繁華街に不似合いな良寛さんの詩碑や銅像、幾つかの寺に芭蕉の遺跡「みの塚」、当地俳人・太田木甫の句碑など見ながら八一の旧居・北方文化博物館新潟分館に急いだ。

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