いしぶみ紀行・新潟1(新潟市)


信濃川は文人達の母なる川

日本一長い川、日本一の米・コシヒカリを育てる川。二つの日本一の名を持つ信濃川は多くの文学・文人も生み出し育てた。因みに、文学碑の数は長野県が一番(日本全体の10%弱で2200基)。
この川は上流の長野県では「千曲川」と呼ばれている。その流域は、万葉の頃から詩歌に歌われ、江戸期には小林一茶が活躍した地である。伝統は受け継がれ、近代になっても文学の宝庫であり続けた。
流域を歩いてみよう。
上流・小諸市周辺では島崎藤村の文学「千曲川旅情のうた](クリック写真)「千曲川のスケッチ」)が生まれ、上田市では漱石門下の久米正雄が誕生、詩人・津村信夫が詩「千曲川」(クリック写真)の名作を書いている。長野市の犀川との合流点は「川中島の古戦場」の地で付近は童謡碑の宝庫。隣の中野市に生まれた高野辰之はご存知の唱歌「朧月夜」「故郷」で日本の原風景を詠い、飯山市で島崎藤村は名作「破戒」を書いた。
やがて川は新潟県には入り、名を信濃川と変える。越の国に入って信濃と名が変わるところが面白い。詩人・西脇順三郎を生み出した小千谷市付近で信濃川は谷川岳に源を発し、川端康成の名作「雪国」の舞台・越後湯沢を流れてきた魚野川と合流して、一段と川幅を広げる。すぐ下流の長岡市で詩人・堀口大学、魚沼市で歌人・宮柊二が育った。歌人・会津八一や小説家・坂口安吾の故郷・新潟市で全長367kmの旅路を終えて日本海に注ぐ。
ざっと、概観しても文人達の「母なる川」と呼べる壮観さである。
長野県・千曲川の文学碑は相当数訪ねたので、今回は処女地の新潟県・信濃川流域を歩いた。


水の都は姿を消していた
梅雨が長引いたため、良寛への思いを断ち切って出雲崎地区は諦め、一泊二日の新潟市・長岡市中心の行程に短縮して出かけた。新潟までの新幹線・2時間強の旅の半分近くは「トンネル」の連続。青空は時々顔を出すだけ。新潟地震での新幹線脱線の大惨事を思い起こす暇も無く走り抜け新潟に着いた。
新潟市は古くから港とともに栄えた商都。江戸期、政治は長岡、経済は新潟が中心であったが、戊辰戦争で長岡藩が壊滅後、政治・経済の中心は新潟市に移った。昭和30年新潟大火で中心市街の大部分を焼失。昭和39年の大地震でも壊滅的被害。平成16年10月の中越大地震と相次ぐ災害に見舞われた災害都市として記憶に新しい。
一方、田中角栄のお膝元として、「日本列島改造」の恩恵を受けて、新幹線・高速道路で首都とつながり、今では本州日本海側では最大の都市(人口80万)となった。信濃川の旅の終点は、その名の通りかつては多くが湿地帯であった。戦前は市街の中心部には堀が張り巡らされ、柳が植えられていたことから「水の都」「柳都(りゅう)」などと呼ばれた。災害から立ち上がる中で、一気に都市化が進み、水の都は姿を消した。


会津八一の足跡を追って
今も昔もこの町の中心である西堀通と古町通の西端の県民会館からから散歩を始めた。
手始めは八一の唯一の歌の弟子・吉野秀雄歌碑であったがのっけから難航を極めた。広大な敷地内を行ったり来たり。坂口献吉(下記注)の詩碑「地上は美しきかな 心ひとつで」は見つけたものの、碑文に感心している余裕は無かった。管理事務所を二つも訪ねて歩いたが徒労に終った。
坂口献吉は小説家・坂口安吾の兄。父は漢詩人として著名。東京から疎開した八一を面倒を見た人。新潟日報の社長として活躍、新潟文化人の中心人物

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