信濃川・越の大橋の袂に、小千谷市最後の碑を訪ねた。
防戦一方の水俣病問題の渦中で熱中した司馬遼太郎の小説「峠」の文学碑は、戊辰戦争開戦の場所となった「榎峠」や激戦地「朝日山」を、更に、平成の大地震や豪雪で壊滅的被害を受けた山向うの山古志村を睨んでいた。熱中した小説の文学碑だけに期待していていたが、残念なことに、河畔一帯が工事中で碑は工事資材で占領されていた。碑面の「主力は十日町を発し、六日町、妙見を経て榎峠を登った・・・小説「峠」一節」は建築資材の隙間から撮影したが、文学碑全体はうしろ姿しか見せてくれなかった。未だ戊辰戦争の激戦中に歓迎されない客として訪れた気分であった。


雪国は逞しく起ち上がろうとしていた

長岡市は、江戸時代には越後長岡藩の城下町として栄えた。戊辰戦争と第二次世界大戦の二度にわたって市街は壊滅的被害を受けるが、不撓不屈の精神により復興を遂げ現在に至る。人口20万人級の都市としては、世界的に見ても珍しい程の豪雪地帯であり、過去に記録的な豪雪を何度も経験している。
訪ねた悠久山公園は市街地を遠望する小山であった。二つの小山に跨る園地は広く、東の山に位置する井泉水の句碑まで山を駆け上り、ひと汗かき、西の山に登って夏目漱石門下の小説家で女婿の松岡譲・堀口大学の文学碑、長岡藩家老で「峠」の主人公・河井継之助記念碑、小泉首相が取り上げ一躍有名になった「米百俵」の逸話の主人公・小林虎次郎記念碑など巡った。広い園地にはまだ震災の跡が残り、目指した井上井月句碑への道は閉ざされていた。山百合の群生が沈んだ気持ちに優しかった。
山を降り、堀口大学の母校・長岡高校にその詩碑を訪ねたかここも工事中。辛うじて保護塀の脇に取り残された詩碑「来ては学んで巣立ちゆく 郷土の誇る俊秀を・・・」(詩・母校百年)の写真だけ撮り、信濃川河畔に車を進めた。
堀口 大学(明治25年〜昭和56))は、長岡藩士、九萬一の長男として東京に生まれる。幼児期から少年期を長岡で過ごす。旧制長岡中学校を卒業し上京。慶應義塾大学文学部に入学。その後外交官であった父に従って青春期を日本と海外の間を往復して過ごす。大正14年、近代フランス詩の紹介によって昭和詩の形成に大きな影響を与えた、訳詩集「月下の一群」を刊行し絶賛を浴びる。詩・小説・戯曲・エッセイなど文学のあらゆるジャンルで活躍。昭和54年文化勲章を受賞。神奈川県の葉山町に住んだ大学は筆者にとっても馴染み深い詩人。人生の哀歓をフランスに学んだエスプリで優しく包んだ詩句の数々はそっと読者の胸に忍び込んでくる。アポリネールの詩「ミラボー橋」の訳詩「ミラボー橋の下をセエヌ河が流れ われ等の戀が流れる わたしは思い出す 悩みのあとに楽しみが来ると・・・日が暮れて鐘が鳴る 月日は流れわたしは残る」を懐にパリを散歩した日々は貴重な海外経験であった。
この詩人については書きたいことが沢山あるので日を改めよう。
長岡市の夏の風物詩は全国的に有名な「花火大会」。昨年の「震災復興祈願花火−フェニックス−」は全国からの応援を得て成功裏に終った。今年も市制百周年にあたり盛り上っていた。今夜が前夜祭、明日からの二日間が二万発の大花火が打ち上げられる本番。

悠久山公園・松岡堀口碑・長生橋遠景橋東詰与謝野夫妻歌碑・信濃川海音寺文学碑
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