照専寺の隣が長岡藩の運命を決した重要な遺跡・慈眼寺。政府軍を迎え撃った長岡軍総監・河井継之助が「戊辰戦争」を回避すべく談判行った場所。この戦争を舞台にした司馬遼太郎「峠」は愛読書だけに見逃せない。戊辰戦争、太平洋戦争の二つの戦禍のためか、大地震、風水害、豪雪のゆえか、闖入者には定かではないが荒廃した境内は無残であった。仮設住宅が夏の強い日差しに照らされていた。 寺の裏手に小山が見える。あそこが訪ねる船岡公園と見当を付けるが、山への登り道が解らない。幾人かの地元の人に尋ねる。みな一様に、地震後の園地がどの様になっているのか、車は大丈夫か、良く解らないと言う。訪ねるしかない。教えられた最初の道は通行止。標高100mほどの小山の裏手の道は幸いにも車が通れた。最悪は炎天下での登りを覚悟していただけにほっとするも、登りつめた入口には「通行禁止」の看板。遥々来たのだからと押し入った。 公園に入って一気に気持ちが冷えた。「船岡茶屋」の看板が残る建物は崩壊寸前で地異の凄まじさを残していた。春なら桜樹で埋まる園地は花見で賑わう所。今なら夏休みの子供達の歓声が聞えてもおかしくない場所。静まり返った高みから信濃川が遠くに光る。 戊辰戦争の官軍戦没者の墓碑が整然と閲兵を受ける墓地の脇で生き残った詩碑に取り付く。 「遠くさまよう旅人よ 聴け この鐘のきこえる路は みな真心へ もどる道だ」(詩「舟陵の鐘」)と刻まれた碑面は菩提寺の裏山の緑降るこの雰囲気に調和して胸に響く。地震がもたらした思いもかけない舞台設定をメモして山を降りた。「無残なや 万朶のさくら 地震(ない)の跡」 西脇順三郎が息を引取った小千谷総合病院(明治の中期に西脇家が設立)は小千谷銀座の真中。その駐車場に車を置き、二荒神社に芭蕉の句碑「あらたふと青葉わかはの日の光」を訪ね、境内から長雨に怒った信濃川の濁流を眺めた。 詩人は背後に聳える病院の1011号室で脳軟化症の身をベッドに横たえていたという。信濃川を眺め、「脳南下症は永遠へ旅立つ美しい旅人だ」(詩「梵」)と呟いた詩人の寂しい声が聞えたようだ。 段丘を下り、信濃川の大橋を渡って、小千谷駅近くの小千谷高校に向う。順三郎は当校(旧制小千谷中学)の第五回卒業生であった。玄関前に脇に半身像を従えた校歌詩碑「信濃川静かに流れよ 我が歌の尽くるまで・・・」があった。さすが名門校、眺めていると、登校して来た生徒が礼儀正しく挨拶を送ってくれた。 今回の訪碑で三つの詩碑を見たが、そこには詩人が拓いた「馥郁タル火夫ヨ」の世界ではなく、「旅人かへらず」の世界があった。シュールレアリズムには馴染めない筆者はほっとしながら、詩人の旺盛な詩魂と深い思索に想いを馳せた。 照専寺西脇詩碑・船岡公園西脇詩碑・小千谷高校西脇詩碑・越の大橋司馬文学碑 小千谷高校から再び市の中心へ。名物「コシヒカリ」は大都会へ出張中だったので、昼食は蕎麦を選んだ。「へぎ」と呼ばれる木製の板に一口サイズに盛った当地の名物「へぎそば」をご馳走になる。腰のある美味しい蕎麦に満足して長岡に向って国道を走る。 P.01へ −P.02− P.03へ |