いしぶみ紀行・新潟2(長岡市・小千谷市)


三条市の信濃川には凌霄花が流れていた

心地よい目覚め。朝日に輝く新潟駅を見下ろしながら昨日のメモを作り今日の行程を復習。TVは待望の「梅雨明け」を宣言していた。
新潟駅でレンタカーを借り、コシヒカリを踏み分けて三条市に向った。
正楽寺で吉野秀雄歌碑「慈母の乳壱百八拾石とかや 愛しきことは世に残りけり」にご対面。新潟市は不発に終っただけに、無事に探し当てほっとしたものの、碑文の内容についての勉強不足を悔いる。信濃川河畔の与謝野晶子碑では凌霄花が満開の花で歓迎してくれた。広がる伸びやかな風景が目に優しい。青空の下の晶子歌碑「くろ雲と越の大河の中にあり 珊瑚の枝に似たる夕映」も素晴しい出来で気持ちは快晴。この天気なら凄まじい落日が歌碑を飾る所が見える筈だが、旅人は留まることを許されず、隣の小千谷市に走った。


西脇順三郎のふるさとを歩く
再び、田圃で埋め尽くされた平地を一直線に走る。日本一のお米の上を走る。何だか勿体ない気分。所々に大震災の跡を見る。
小千谷市は信濃川の段丘地帯に蹲っていた。人口4万人のこの地に足を運ばせたのは「西脇順三郎」と司馬遼太郎の小説「峠」であった。これ以外は「小千谷ちぢみ」「豪雪地帯」「2004年の大震災」とたったこれだけの言葉しか知らない。従って、この街は「西脇順三郎」に沿って歩く他ない。歩きだす前に生涯を見ておこう。
西脇順三郎(明治27・1894年〜昭和57・1982年)は小千谷の資産家の次男(父は小千谷銀行頭取・小千谷町長)として生。小千谷中学校(現小千谷高校)を卒業後、上京して慶應義塾大学に入学。英語による詩作を開始。ギリシャ、ラテン、ドイツなどの語学も習得。卒論は全文をラテン語で書いた。西洋への傾倒ぶりは徹底し、「日本的なふるさと」を嫌悪し、「小千谷」という言葉を聞くことすら厭う。大学卒業後、萩原朔太郎の詩集「月に吠える」に出逢い詩人を志す。大正11年、イギリス・オックスフードに留学。夢に見ていた「考えたり、感じたりすることを外国語で行う」生活を始める。M・ビッドルと出会い、恋に落ち、結婚。大正14年、英語詩集「スペクトラム」をロンドンで刊行の快挙。帰国後、慶応大学教授。昭和2年日本で最初のシュールレアリズムの詩集「馥郁タル火夫ヨ」を出版し注目を浴びる。昭和8年近代人の憂鬱をテーマにした詩集「アムバルワリア」で詩人としての地位を確立。故郷を捨てた詩人が、小千谷に戻ったのは疎開のためであったが、戦禍は詩人に日本の文化を再認識させ、「東洋回帰」を果たす。その果実として、昭和22年、53歳の詩人は詩集「旅人かへらず」を刊行。みずみずしい想像力は以後も衰えず、大学教授の傍ら、次々と詩集、評論などを発表し続ける。最後の詩集「人類」を上梓したのは、昭和54年、何と85歳という高齢で、人々はそのエネルギーに驚嘆した。慶応大学文学部長、日本学術会議会員、人々の尊敬を一身に集め、ある時期、ノーベル文学賞の候補者にも挙げられた。西洋から始まった順三郎は、日本の伝統を再発見し、最後にふるさとへと戻った.
雪国の低い軒の連なる、暗い色調の街の中心に西脇順三郎の菩提寺・照専寺があった。復旧工事中でごった返す本堂前に詩碑「ああ 無量の世界へと さすらふ人間が 夏の日に この故里にもどり来てしばし・・・」だけが取り残されていた。東洋回帰以来の一貫したテーマを「幻影の人」「永遠」に置き、自らを「帰らぬ旅人」になぞらえた詩人のふるさとの山河への想いが碑面にあった。だが、大震災の傷跡は順三郎を偲ぶ雰囲気を奪い去っていた。墓参は失礼し、詩碑の無事を確認して隣へ足を向けた。
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