(写真:唐戸市場「わたしと小鳥と」・寿公園「はちと」・上山文英堂跡「みんなすきに」)クリック拡大
*寿公園の記念詩碑の中央の写真はみすゞ20歳の村田写真館での半身像です
またまた「折角ここまで来たのだから」と呟いて、赤間神宮へ飛沫を飛ばしながら走りました。「竜宮城」を思い浮かべながら作られたという山門は雨中にも凄然と立っていました。こちらといえば、安徳帝の沈んだ瀬戸の急流から生還を果たした落武者のような姿で、平家公達の眠る墓所まで、輩の供養にと石段を這い上がりました。朱塗りの神社はこの雨の中でも美しかったが、眺める関門海峡は黒雲に覆われ、波は白く、大橋は風にかき消されていました。これは平家の無念の風雨なのだと思いながら、広い境内に「芭蕉」「虚子」「誓子」の句碑を探したひと時でした。小泉八雲が有名にした「耳なし芳一」を祭る堂内から「祇園精舎の鐘の声諸行無常の響きあり沙羅双樹の花の色…」と芳一が弾き語る平家琵琶の音が聞えて来たのは幻聴だったのでしょうか・・・。
あと一息、あと一息です・・と関門大橋直下の「みもすそ川公園」へ。
そこは源平の壇之浦古戦場跡、幕末の攘夷戦場跡。長州藩の大砲が雨に光っていました。二位尼(清盛妻時子)の辞世歌碑と松本清張文学碑(半生の記)だけは何とか見つけ、戦いに敗れた平氏同様に打ちひしがれ、「ふぐ」を探しに一目散に街の中心部に戻りました。
すっかり冷え込んだ体は「ひれ酒」を要求していましたが、外は暗くてもまだ正午なので遠慮し、また、暴風雨に戻りました。下関最後の文学碑二基(水族館・佐藤佐太郎歌碑、下関PA・中原雅夫詩碑)を訪ね、吹き飛ばされないように用心しながら海峡を渡りました。
何がこんな酔狂な冒険をさせたか今もって解らない下関でした。「エイヤッ、エイヤッ」の連続と「折角此処まで来たからには」に後押しされての半日でした。
遠い昔、涙しながら読んだ矢崎氏の「金子みすゞの生涯」で出会い、みすゞへの旅が始まり、漸く、一つの区切りを迎えました。思えば遥かな道程でした。
P.05へ −P.06− 最終P.07へ