音楽には病気を治す、軽くする、といった効果があるようで、昨今は「音楽療法」と呼ばれる分野を、あの日野原博士が広めようとして居られるようですね。
   "しょぼつき"が起き始めた眼を労わりながらこんなことを考えています。
   やがて五感の総てが弱まり、何事も幽かにしか感じない時を迎えるでしょう。
   ご存知の通り「黄昏」の語源は「誰ぞ彼は」です。人は誰でも何れ黄昏の季節を迎えます。あれほど鮮明な記憶の持ち主の父が、時には、傍に居る子供に「誰」と言うのです。老いの道はやがて確実に雲の中に飛び込み、視界不良となり、全てを流れに任せる日々を迎えるであろうことは確実です。その時が出来るだけ遅くなるように努めるとしても、せめてその日まではしっかりと茜色の坂を眺めながら歩きたいと思っています。「つるべ落とし」と形容されるように、息を呑んで美しい夕焼けを見つめる時間は短いのだ、いや、それを見る暇もなく突然に生が断ち切られることも覚悟して、古代人と同様に静かに落日の時を待てばいいのだ、と思っています。  
−最後の仕事−

   「年寄りの最後の仕事は、子供や孫に自分の死に方を見せること」(遠藤周作夫人「再会」)
   だとすれば、いつの間にか「夕日」と名前を変えた太陽が紅い可視光線を放ちながら西の彼方へ沈んで行き、地表も大気も紅と金に染まる時を周囲に見せることが出来れば最高だと考えています。
   「風立ちぬ」の二人が見た死者の眼に映る最高の美しさは、去りゆく本人だけでなく、残される親しい人々にも見えるし、見せなければならない・・と考えています。
    しかしながら、そう思っていても、実現しないかも知れません。「円熟」と「老醜」は表裏一体であることも真実のようですから。
   それを見事に描き出した小説をご紹介しましょう。
    「荒海の逆巻く波の悶えつつ落日の火心にたぎりて沈む」。これは晩年の一年四ヶ月を、ポルトガルのサンタクルスの浜に移り住んだ檀一雄の短歌です。その地には歌碑もあるので訪ねて見たいと思っているのですが実現していません。
   日本の近代作家の中で、檀一雄ほど落日のイメージに強く執り付かれた作家は、そう数多くありません。癌に肺臓を侵されながら「火宅の人」の最終章の口述筆記を病院のベッドで行う作家の姿は、まさしく残り火をかきたてて、いまわの際に精一杯の燃焼をとげて沈もうとする夏の終りの太陽そのもののようでした。
    「夏は終わった。畜生! 夏は終わった・・・。西の廊下の窓の端から眺めやる小さい富士は、全く素晴しかった。その金色に輝く空のはずれ辺り、まるで置き忘れられたような富士の姿なのである。」(「火宅の人」終章)との描写は強烈な印象を残しました。
   「円熟」と「老醜」を物語っているようで、何となく寂しかった、と読書メモに残してあります。 老いの美しさを見せるか、老醜を曝け出すか、それは本人には解りません。どちらにせよ、成り行きに任せて、ありのままの姿を見せるのが最後の仕事だと思っています。
    そして、もう一つ仕事があります。
   茜色の坂は身を削ぐようなつらい作業が待ち受ける坂でもあることは先に書きました。そんな時に「自分が死んだら一番先に逢いたいと思っている人の声が夕べの雲の間から聞こえてくるとしたら、それはどんなに大きな慰めになるかわかりません」(「再会」)と愛する夫・遠藤周作を失った悲しみの中で順子夫人はその心境を語っています。
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