−老いの視線−
   老々介護の日々は思い出を語る日々です。「老いの視線」について考えさせられる日々です。
    「茜色の坂」はこう語っています。
    「人生を見る視覚の相違なのだ。未来の多い人間ほど、俯角的に先ばかり見て生きている。俯角の行き着く底は死の暗黒だが、それはまだ遠く模糊としていて、そこへ行き着くまでの多くの可能性だけが眼に映る。・・・幸福な人ほど、過去を見ようとはしないし、見えもしない。だが、死期の迫った人間の視線は、自然に仰角的になり、そこにある過去の展望に、気づくものなのであろう。未来にあるのは、死だけだからだ。その角度から人生を振り返ってみて、はじめて虫のような胎児の生命の、未来と可能性の膨大さに気づく」 とても鋭い考察だと思って、線を引きました。成る程と納得する言葉でした。
    どうやら、複数の視点を持つことが常に大切なようですね。 仰角的視点(未来・若年)と俯角的・俯瞰的視点(過去・老年)の二つを併せ持つと、世界は広まり、衰えてくる眼にも眼下に広がる様々な木々の、夫々の紅葉がくっきりと見え、それらが私を包んでくれているのを感得できそうです。
   人生の晩秋に相応しく、夫々の人生の色に染まっている色彩の氾濫はどれをとっても見事なものだ、と感心しながら眺められるのは幸せなことだと思います。実りの秋の豊饒さに酔うことが出来る季節が老いの季節ではないでしょうか。
   何時もご紹介する、堀辰雄の「風立ちぬ」の一場面をまたまた書きたくなりました。 死の床につく婚約者が「自然なんぞが本当に美しいと思えるには死んで行こうとする者の眼にだけだとおっしゃったことがあるでしょう」と夕景を眺めながら呟く場面です。大変切ない言葉ですが「死を前にした者にしか見えない美しさ」が必ずあり、それが「夕焼の美しさ」であるとそれ以来信じています。
   弱くならなければ見えないものもあると確信しています。
 
−衰えについて−歳を重ねるということ−

   五感は、個人差はあっても、歳を重ねるに従って次第に衰えます。
   茜色の坂を歩くには、機能低下した五感を総動員しなければならないと思っています。それは、現代人から古代人に還って行くことです。
   自然に直接身を晒していた古代人は、今では考えられない位、五感の総てを使っていたのに相違ないと思います。文明の発達と共に失っていったこの五感の総動員は、老いの道を歩くための必需品です。一つ一つの感覚が衰えてゆく以上、今迄以上に総動員を心掛けねばならないと思っています。    自然と親しむこと、旅をすること等々によって失った五感を取戻し、総動員することが可能です。
   そんな屁理屈をつけていしぶみ紀行に精を出しています。
   絵や音楽に触れることも心掛けています。
   昨年の冬、展覧会で見たモネ「セーヌ川−夕焼の効果」は好きなモネの中でもひと際強い印象を残しました。空気は薄ぼんやりとフェードアウトしながら、やがて、暗闇の中に消えて行くという風景でした。眺めていると、心が安らぎましたよ。きっと、絵と同じように、夕闇に静かににフェードアウトして行きたいと願って見ていたからでしょう。素晴しい絵画は沢山のことを感じさせてくれるようです。
   再読した「茜色の坂」の最終場面で主人公はフランス・シャモニーの夕焼けを眺めながら、童謡「赤とんぼ」を歌います。この歌を歌うことによって呼び覚まされる感慨に心が静かに満たされて行くことをきっと作者は知っていたからでしょう。
                            −p.07−