茜色の坂の歩き方
    ずっと昔、差し上げた賀状に「時を止めてください」と書いたことがありましたね。
   直線的に激しく流れる時間の中で、唯一の抵抗は「時間を止める」ことだったからです。 それは「時よ止まれ、お前はいかにも美しいから」(森鴎外訳)と叫んだゲーテのファウストの言葉からの発想でした。時間に呪縛された日々の悲鳴でもあったと今思っています。
   時間の呪縛から解放されて、茜色の坂を歩き始めた頃、歩き方について三つのことを書きました。(2002.09「いしぶみ紀行・信州」)
   一つは、精神的にも肉体的にも出来る限りの「自立」が望ましいのでその努力をする。
   二つは、努力にも拘わらず着実に来る、「堕ちる」速度を少しでも遅くするために、共棲者と共に少しでも「成長(成熟)する意志」を強く持ち続ける。
   三つは、精神も肉体も衰えるが、精神生活の衰えをほんの少しだけ遅くらせること。 誰にでも訪れる精神と肉体の衰えは防ぎようも無く、それは表裏一体のものだと理解はしているが、せめて、三つ目の願いを叶えるためには精神の健康が重要だとつくづく思う。
   それ以来も、このテーマは頭から離れません。今回の旅の途上に考えたことを、まとまらぬままに書いておきます。
   −老いと孤独−
    「老い」とは大切にしてきたものを一つ一つ無理やり剥ぎ取られてゆく季節である。
   船山馨「茜色の坂」にはこんな季節に相応しい心境が描かれていて、心に響きましたので記しておきます。
    「人はこの世の孤客なれば/ひとり何処より来たりて/束の間の旅に哀歓し/ひとり何処かへ去るのみ」「孤客とは孤独な旅人、例えば、静かな夕景、打水に濡れた露地を、見知らぬ一人の客が草庵を訪れて、一服の茶を所望する。庵主は誰と問うこともなく、茶を点てて供すると、客はそれを服し終り、丁重に、しかし、短く礼を述べて来たときと同じように静かに何処へともなく立ち去ってゆく。このとき、客と庵主の心に、もし人生の奥深い部分に触れた余韻が漂うとすれば、これを孤客の訪れと称していい。それがまた、茶の本質にも一致するような気がするのは、私が素人だからであろうか。ここでは茶は人生なのである」
    脳腫瘍の宣告を受け、死を前にした主人公の心境をこう語っています。表面に描かれた 人生は様々であっても、人の一生涯の重低音にこんな音が流れているに相違ないと船山馨は考えています。        老いの季節には、それまで聞えなかったこの重低音が聞える季節でもあると思います。社会との接触が次第に少なくなり、世の中の雑音が遠のいてくると、否が応でも、孤独と向き合い、慣れ親しまねばならないのが茜色の坂の道程だろうと思っています。程度の差はあれ、次第に五感の総てに障害が出てくることは避けられそうにありません。でも、この重低音だけは必ず聞えてくると確信しています。    この音は重く、寂しく、悲しく、辛いものですが、誰の人生にも流れているのだと知っておくことは慰めになります。孤独と果然と向き合う心構えはしておきたいと思うのです。

   −老いと病−
   「老い」は健康だった細胞が長年の酷使に反乱を起こす季節である。
                            −p.05−