「夕焼小焼」「赤とんぼ」の秘密
   明治以降、私達は西欧文明を積極的に取り入れ、それこそが近代化の道と信じてきました。その結果、近代文明の恩恵を受けたことは間違いありません。が一方で、近代社会が考えた直線的な時間の流れは、時間に追い立てられる日々を産み出したことは否定できないでしょう。「時間」という魔物に取り付かれ、その強迫に悲鳴をあげているのが現代でしょう。
   近代人の苦悩を代表するボードレーヌの詩「敵」には「ああ 何という苦しみ!時が命を食らうのだ」と詩的に表現されています。そしてボードレーヌの推奨する唯一の解決策は「時間の重みを感じないためには、常に酔っていなければならない。しかし、何によって?酒であろうと、詩であろうと、美徳であろうと、お好み次第だ。ただ酔っていることが肝要なのだ」(詩「酔え」)と私達に示されるのです。
   そうなのです。近代に生きる私達は常に何かに酔っていなければ耐えられない時間の強迫に晒されているのです。古代より連綿と受け継いできた私達の先祖の夕日に寄せる思い(生・死・再生という無限の円環)は近代西欧文明によって見事に破砕されてしまったのです。一生懸命に取り入れてきた西欧の太陽は、私達の「赤い太陽」と色の違った「黄色い太陽」だったのです。
   こう考えると、「赤とんぼ」も「夕焼小焼」も明治を過ぎて近代化の幻想に気づき始めた大正時代に誕生したのは決して偶然ではない様に思われます。中央集権の完成が維新による革新と文明開化の流を汲む理想主義や自由主義の気風を封じ込めていったことと密接に結びついているのです。輸入した近代人の苦悩が産み出した作品と考えられます。
   こうして生まれたこの歌を歌うと、地図も磁石も持たなかった時代から綿々と日本人に受け継がれてきた私達の先祖の感覚が呼び覚まされ、心が休まるのです。遠い祖先の遺伝子が目覚めるのです。
   この歌には日本人の細やかな自然観、人生観が織り込まれていて、それが琴線を揺さぶり、無限の円環を巡る時の旅人にしてくれるのです。 こう考えると、老いを歩く時期にはこの二つの童謡が若い時代以上に琴線を揺さぶることが理解できます。 童謡として子供達に歌われる歌でありながら、自然との静かな語らい、丸く流れる時間への想いが茜色の坂を歩く人にも相応しい歌となり、大人から子供まで長く愛されて来た秘密に気が付くのです。
   小生の愛読する立原道造は自分の詩集についてこう記しています。
   「僕はこの詩集がそれを読んだ人たちに忘れられたころ、不意に何ものともわからないしらべとなって、たしかめられずに心の底でかすかにうたう奇跡を願う」
   総ての詩人のこうした願いを「夕焼小焼」「赤とんぼ」は見事に実現しています。
   試みに口ずさんで見てください。自然との静かな語らいが甦ってきませんか。
   黄色に描かれる西欧の太陽、一方向的に流れる時間から、赤く描かれる日本の太陽、丸く流れる時間へ、今一度、切り替えなければならないとの想いが浮かんできませんか。
   
   余談ながら最近の歌についてひとこと。
  音楽だって時間の重圧・脅迫に負けたと思います。昨今のやたらに烈しいリズム重視の歌は聴く気がしません。言葉は早いリズムに付いて行けずに消えています。歌の復権を願うのは私だけでしょうか。
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