どうやら、私達が夕映えを前にして感じる物は先祖代々受け継がれてきた、日没に感じる「再生」のイメージに繋がっているようです。確かに一つの生は消える。だが、時をおいて必ず戻ってくるという確信、消えなければ再生はないとの想いは、宗教心の有無に係らず、強い感慨をもたらすのでしょう。黄昏は私達の祖先の記憶、埋め込まれた祖先の遺伝子が騒ぎだすひと時なのです。
   そんなことを考えていた時、高田宏「空と大地へ還りゆく日は」に出会いました。
   そこにはこんな話が紹介されていました。
    『構造主義生物学者、池田清彦が、最近、「臓器移植 我 せずされず」という本を書いた。その中にこんな数行があって、ぼくは深く納得した。「生態系もまた個体の死の上に成り立っている。生態系は生産者(植物)、消費者(動物)、分解者(微生物)の間を物質とエネルギーが循環することで成立しているが、個体が死ななければ循環は成立せず、生態系もまた成立しない。生と死は表裏の関係にあり、死がなければ生もまたない。その意味で、死すべき時期がきたら死ぬというのは、極めて深いところにおける生きとし生けるものの倫理だといってよい』
   如何にも、生物学者らしい考察ですが何となく胸に収まります。
   繰り返しますが、夕焼に感じる滅びの意識は、再生へのつよい願いに裏打ちされています。この輪廻への願は宗教的に考えればもっともっと奥深いものでしょう。
   そこにまで思いは及びませんが、何となく輪廻に親近感を覚えるのは、きっと、私の体が70%以上は水で出来ているからだと思います。
   水といえば「水の旅人」と呼ばれるように山から川に、川から海に、海から空に、空から山に・・・と永劫の時間を巡っています。私達の体が水で出来ている故に、水に親和性を感じ、その"水の旅路"が輪廻という仏教の言葉を思い出させるのです。
   最近めっきり増えてきた脂肪を気にしながら、こんな奇妙な考えに取り付かれています。
 
  「落日論」に触発された余談を書いておきます。
   インダス・インド・エジプト・ギリシャの文化・文明は何れも太陽と共にあり、思考は水平に移動します。一方、ローマから急速に花開いた、キリストの文化・文明は、"天にまします主・イエス"を中心に垂直に広がっているように思われます。
   西欧の大聖堂に代表されるゴシック建築の屋根が「十字架」の形をしているのは天上のキリストに捧げる建築だからです。天に伸びる意思、憧れが何百年に亘って、営々と石を積み上げさせ、壮大な垂直の塔を作り上げさせたと思うのです。あの鋭く空を切り裂く尖塔はキリストに救いを求める人間の手を象徴していると何時見ても感じるのです。
   私達日本人があの天に伸びるゴシックの尖塔に、何がしかの違和感を持つとすれば、水平に広がる私達の思想とのミスマッチの所為ではないかと思うのです。如何でしょう。

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