この天狗山は村上水軍の時代から小宇宙の観測点として選ばれてきたという。秋の闇夜にここから真北の山頂を眺めれば、その上空に北極星(妙見菩薩)を中心に「北斗七星」が大円周を描いて回転する神秘な小宇宙が現れるというのだ。何処かで読んだそんな案内に惹かれて頂上の良く見える近くの公園に足をのばした。そこには城山三郎文学碑「目を上げれば海 遥かに任せて自在の海 ああ 人生は海(「秀吉と武吉」一節刻)」や高浜虚子句碑「春潮や倭寇の子孫汝と我」があった。
(写真:つれしおの石ぶみにある林芙美子文学碑:司馬遼太郎文学碑:吉井勇歌碑)
帰りのバスまで少し時間があったので、運転手に島の中心にある村上水軍の「水軍城」に案内を頼んだ。城の登り口の資料館前には村上元三「みなみ吹く村上水軍ぞあの歌は」の句碑。その碑陰には「この因島から遠い昔八幡船の男たちが南瞑の海へ船出していった・・・」と刻まれていた。 水軍城そのものは観光客目当ての築城でがっかり。城からは期待した海の片鱗も見えなかった。が、わが国の経済と文明の通り道であった瀬戸内海を制した村上勢の熱気が人をこの地に誘うのだろうか、観光バスで大勢の人々が押し寄せていた。
尾道・岡山を経由して岡山空港に戻った。「旅の打上のビール」で喉を潤しながら訪ねたいしぶみを思い起こした。
笠岡市で見た飯尾宗祇句碑は500年、津山市の芭蕉句碑は170年も生きていた。いしぶみと言っても元々は物言わぬ唯の石ころに過ぎない。が、言葉を刻んだ途端に石は命を宿し、語り始め、長い年月の風雪に耐える。一方、病気で倒れるまで頑張って企画し、鉄筋で補強までした社宅は30余年で消えた。同じ「人間」が建てた物なのにその命運の違いは何処から来るのか、酔いが回ってきた脳細胞には解けなかった。
「言霊を載せれば石の命は途方もなく長いよ。時の流れに消されずに何時までも生きよ」と訪れたいしぶみ達に別れの挨拶をして飛行機に乗った。
神戸や大阪の夜景がサービスに付いた夜間飛行が旅の終りを告げていた。
遥か彼方の因島に住んだ古の村上水軍の男達がもう次の旅を誘っていた。
(紀行2005年10月20日−22日.記録 11月15日)
(写真:朝の倉敷美観地区)
−P.09完−