倉敷市玉島に徳富蘆花と良寛和尚を訪ねる
   連島から広い高梁川を越えて玉島地区に入った。 その昔万葉集に「たまのうら」として詠まれた玉島は文字通り島であった。江戸時代に新田開発により陸続きとなり、港を整備し、高瀬の往来する備中の玄関口として永く栄えた。その玉島地区の海岸線にあった戸島山麓一帯は「養父(やぶ)が鼻」と呼ばれ、遠浅の白砂青松の景勝地であったという。
   訪ねた戸島神社はその養父が鼻の断崖絶壁の上であったが、今は工業地帯の真ん中で陸の孤島。広い境内を見渡したが徳富蘆花の歌碑は見当たらない。社務所で聞くと社殿脇の児童公園の中と山麓の鳥居の近くにあるという。昔を偲ばせる松がちらほらする公園には、遥か彼方になってしまった海に向って、蘆花夫妻の二基の歌碑が建っていた。
  大正7年に当地を訪れた夫妻は風光明媚なこの地が気に入って数十日も滞在した。その縁で地元の有志が昭和8年に山麓の岩に「人の子の貝掘りあらす砂原を 平らになして海の寄せ来ふ」と蘆花の歌を彫り磨崖碑を作った。昭和29年山麓にある磨崖碑のレプリカを高台の神社境内に建立し、愛子夫人の「おもひ出の浪よる磯に心飛ぶ 詩碑に命のよみがへる今日」の歌碑を添えて比翼の歌碑とした。
   玉島の旧市街の道は細く、陸深く潜り込んだ玉島港は道路の高さまで海面が迫っていた。街並みを掻き分けて円通寺のある小山に車を走らせた。地元の運転手の腕の見せ所であった。
   この寺は奈良時代に行基によって開かれた古刹であるが、寺を全国的に有名にしたのは良寛和尚であった。安永8(1779)年この寺の高僧を慕って遥々越後から良寛がやってきて、二十年間もここで修業した。その縁で訪ねる人が多く、毎年、威徳を偲ぶ「良寛祭」が開かれている。広い境内には10基近くの良寛歌碑・詩碑が散らばっていた。車を待たせて山を駆け回った。
 「うらをみせおもてを見せてちるもみじ」と彫られた良寛の辞世の句碑が気に入った。一読、易しそうな句だが辞世の句として読むと自然に観入し人生の真実を詠んだ句として味わい深い。「清貧に甘んじた高僧は古今を問わずかなり実在していた」と後の良寛を思い起こさせる良寛漢詩碑や、良寛を慕って昭和11年当地に杖を曳いた種田山頭火の「岩のよろしさも良寛さまの想い出」が境内の片隅に蹲っていた。

   尾道は寺と迷路の街
   新倉敷駅から笠岡市へ。この地で生まれ、活躍した木山捷平の碑を市立図書館に訪ねた。「濡縁におき忘れた下駄に雨がふってゐるやうな/どうせ濡れだしたものならもっと濡らしておいてやれと言ふやうな/そんな具合にして僕の五十年も暮れようとしてゐた(詩「五十年」一節)」と記されたこぢんまりとした碑は心に残った。碑には詩人と一緒に私の五十年も刻まれているようで愛おしかった。500年の年を経た連歌師・飯尾宗祇の句碑も古城山公園に健在であった。
   落日を早めた秋の日差しに追われながら尾道に入った。尾道は細い路地と石段や坂道が織りなす迷路のような町で、直ぐ向いの向島との間の水道に今にも転げ落ちそうに千光寺の山にへばり付いている。見上げれば寺の甍ばかりが目に入る寺の街であった。
   
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