庭の片隅にこれから訪ねる厄神社の泣菫詩碑に似た詩碑が建っていた。「ここに移設?」とよく見たが写真でお馴染のものとは少し違う。どうやらレプリカらしい。展示パネルには西浦小学校にもレプリカがあると案内していた。
   薄田泣菫は明治10年に当地で生まれ、東京・京都・大阪で活躍していた頃も、折に触れてこの家に戻っており、昭和20年にここで亡くなっている。生家は明治初め頃のものと思われる古い建物であったがよく手入れされていた。前庭には梅・金木犀・竹、裏庭には柿・夏みかんなどの果樹が植えられていた。裏山には奥津城があるようだが失礼した。
   連島旧街道を西に車を走らせる。「ヤットコ」という奇妙な地名見つけては「数十年の念願を果たすべく"やっとこさ"と訪ねてきたよ」と呟き、失笑を買った。
   永くこの地の人々に崇拝されてきた厄神社。昔は岬の突端だったのだろうが、今は、街道筋から続く細い道の奥の奥。幾重にも曲がった道を辿って山裾の鳥居前に出た。「長い急な石段か」とため息をつくと、「頂上まで車で行けるかもしれない」と脇の細い急勾配の山道に車を入れてくれた。
   薄田泣菫の「ああ 大和にあらましかば」の詩碑は狭い境内を社殿より立派に占有していた。
「ああ、大和にしあらましかば/いま神無月/うは葉散り透く神無備の森の小路を/あかつき露に髪ぬれて往きこそかよへ/斑鳩へ。平群のおほ野、高草の/黄金の海とゆらゆる日/塵居の窓のうは白み、日ざしの淡(あは)に/いにし代の珍の御経の黄金文字/百済緒琴に、斎(いは)ひ瓮(べ)に、彩画(だみゑ)の壁に/見ぞ恍(ほ)くる柱がくれのたたずまひ・・・」
    親友・ノンちゃんと二人で「青春の奈良の都」を思い出す縁としてきた詩であった。何度も二人で訪ねようと企画していた詩碑であった。
    「ノンちゃん。やっと来たよ。碑陰は詩人・日夏耿之介の撰文だよ」と亡き友に知らせながら、六曲屏風大理石壁を後壁にして、備前焼陶板に詩句を焼き付けたプレートを嵌め込んだ詩碑に見とれていた。各地で出会った谷口吉郎氏の設計の文学碑の中でも白眉の一つであった。
   
           (写真:連島・薄田泣菫詩碑:玉島の徳富蘆花磨崖歌碑:円通寺良寛句碑)

   ここまで来たからには・・・と道を尋ねながら西浦小学校に辿り着いた。教頭の案内で校庭にある詩碑を見せてもらう。最近は「泣菫を偲ぶ会」なども出来て、未だに熱心な人々によって顕彰が続いているとの嬉しい話も聞いた。泣菫の生家からは連島東小学校の方が遥かに近いのに何故此処にレプリカが置かれているのかは解らなかった。
* 薄田 泣菫 1877(明治10)年−1945(昭和20)年.詩人、ジャーナリスト、エッセイスト。詩集「暮笛集」「白羊宮」は古語を生かした抒情的な、古典的浪漫的な詩風で知られている。島崎藤村・土井晩翠を継いで明治の詩壇で蒲原有明と共に第一人者として活躍した。
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