倉敷の浦島太郎
   岡山経由倉敷に入った時には夜の帳が降りていた。駅北側にできたチボリ公園のイルミネーションが町の変身を告げ、駅南側にあった讃岐うどんの店を初めとして脳裡に刻まれた倉敷駅は見事に消えていた。見知らぬ土地に来た浦島太郎夫妻は「アイビースクエアーホテル」に急いだ。
   昭和47年から1年半住んだ倉敷は、人口40数万人で「大原美術館を中心にした美観地区」「鷲羽山・瀬戸大橋を中心とした児島地区」「北前船や高瀬舟で栄えた玉島地区」「埋立地の工業地帯の水島地区」と4つの地域に分かれている。短い期間であったため「水島地区にある工場」と「倉敷駅に近い社宅とスーパーと病院」を往復する日々であった。が、和歌山や東京から家族が訪ねてくる度に美観地区には足を運んだ。
   夕食後、ライトアップされたその美観地区を歩く。ここには30年前が残っていた。やっと倉敷に帰って来た気持ちで思い出を拾い集めた。
   父が未だにはっきりと覚えている「七五三詣」は三人の子供達が七、五、三歳と並んだ記念すべき日であった。翌朝早く散歩に出てその舞台を再訪した。ホテルから鶴形山に登り山頂の阿智神社で立派に育った子供達のことを報告。清々しい空気を破って朝日が昇り、神々しい風景に出合った。地元の人と並んで「あれから30年。生きているだけで丸儲け」と朝日に手を叩いた。山を降りて商店街で七五三の記念写真を撮影した写真館を探した。名前は失念していたし、場所もうろ覚えであったが、それらしい写真館はまだ健在であった。(帰って写真を確かめると「渡辺写真館」で間違いなかった)
   早めに朝食を済ませ、観光客の出ていない美観地区を今一度散策。開門を待ちかねて大原美術館へ。モネ「睡蓮」でフランス・ジベルニーのモネの家を、独身寮の部屋を飾ったエル・グレコ「受胎告知」で青春を・・・と、心に残る絵に再会を果たしたが、セガンティーニは留守であった。
   倉敷のいしぶみ紀行を始める前に安江にあった社宅に車を走らせた。30年余の歳月の残酷さを見せ付けられることを承知であったが、近くの八幡神社に着いても一向に見慣れた風景は出てこなかった。漸く、社宅裏の中学校の校舎を発見して場所の見当を付けた。記憶にある用水路は残っていたが、取り付け道路を曲がっても4階建の社宅は姿を現さず、ブルドーザーが座っていた。建物2棟は見事に取り払われ、住宅地として分譲する準備に忙しい様子であった。一面の田圃であった社宅の周りには家が建てこみ往時の面影は消えていた。あまりの変貌に場所を間違ったのでは少し歩き回ったが結果は同じであった。長居は無用であった。「ブルドーザーさん、あまり掘り返さないで下さい。ここには大勢の人々の思い出が埋まっていますから・・・」とお願いして車に乗った。

倉敷市連島で薄田泣菫の詩碑に感動
   連島地区の歴史は倉敷の中でも美観地区より古い。近世までは備前国、中世には備中国として、古文書にしばしば登場するという。江戸時代に入ると瀬戸内海の浅瀬は干拓が進み人々は半農半漁民へと変った。昭和の高度成長の波は田園と沿岸の海を飲み込み、連島を陸地深く封じ込めた。
    新しい産業道路から逸れて、昔の海辺の部落の面影を残した連島旧街道に入る。薄田泣菫の生家は旧街道から車一台がやっと通れる細い路地の奥に保存されていた。

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