邑久町には夢二が一杯
   一時間に2本の津山線はコスモスの畑と鈴なりの柿の間を長閑に走り、岡山で乗り換えた赤穂線は遠足の小学生で賑わっていた。邑久町に入る直前、津山で見た吉井川の鉄橋を渡った。遠く60kmの旅をして来た川はすぐ下流で瀬戸内海に流れ込む。津山の川幅は200m近くまで成長していた。
   夢二の故郷「邑久郡邑久町」はいつの間にか隣町と合併して「瀬戸内市」と名前を変えていた。ここは岡山駅から30分ほど赤穂線に乗らねばならない田舎の町で何度か見逃していた。
   邑久駅から生家まで2km。「夢二山荘前」と名付けられたバス停の直ぐ脇に、東京・世田谷にあった夢二設計の赤い屋根の夢二山荘が移設復元されていた。木立の中の洒落た洋館はそこだけ別世界のように田園の中に浮ぶ。山荘の周りは小公園。公園は「茂次郎(夢二の本名)橋」と名付けられた小さな木の橋で生家と繋がっていた。橋の手前に白御影石の歌碑が夕日に輝き、「泣く時は よき母ありき遊ぶときは よき姉ありき七つのころよ」と自筆で刻まれていた。細道を辿ると突き当たりに「竹久夢二こゝに生る」(有島生馬揮毫)と彫られた記念碑。16歳までの少年期を過した夢二生家はたわわに実る柿の赤色と茄子の紫色に囲まれ、萱葺き屋根が江戸以来ずっと風雪に耐えていた。私達を含め訪問客は二組。勉強部屋や柱の落書きなどを覗いて周った。
   生家の西南の小山に夢二の墓があると聞いて裏山に登った。山中の墓地には「竹久家」の墓ばかり30基ほども並んでいた。だが、「竹久家先祖代々」の墓碑銘で側面に夢二の戒名(竹久亭夢生楽園居士)が刻まれている墓は発見出来なかった。夢二個人の墓は東京・雑司ヶ谷墓地でおまいりしていたので、5分ほど探して引揚げた。生家の裏山の林の中に当地出身で夢二の親友・正富汪洋詩碑が隠れていたのを探し当てた。
   もう一つの夢二歌碑は彼が遊んだ赤星神社にあるとの情報だったが、生家で確かめると本庄コミニティセンターに移設されていた。白御影石には「まてど暮らせど来ぬ人を 宵まち草のやる瀬なさ 今よひは月も出ぬそう奈」と詩「宵待草」が詩人・有本芳水の揮毫で刻まれ夕陽を背にしていた。
 
                (写真:竹久夢二生家:本庄コミニティセンター夢二歌碑:邑久駅前夢二歌碑)
   念願の詩碑に無事に出会えた充実感に満たされながら邑久駅行きのバスを待つ。折り良く来たタクシーを停めるとここまで送ってくれた老年の運転手が座っていた。津山に次いで今日二度目の奇遇が嬉しくて、チップを弾んで邑久駅で降りた。駅前には今日の最後の詩碑が日没を待たせていた。白御影石の碑面は本庄コミニティセンターと同じ詩「宵待草」であった。
   邑久町から岡山への車中は黄色の穂波と夕焼けに彩られた。地平から立ち昇る雲を茜色に染めて大きな太陽が落ちて行った。
*竹久夢二。明治・大正期の画家、詩人。明治17年(1884年)生。 昭和9年(1934年)永眠。享年51歳。夢二特有の眼の大きな女性像は「夢二式美人画」として、当時の若い世代を熱狂させた。詩「宵待草」は多(おおの)忠亮により作曲され、大正末期に大流行した夢二の代表作。因みに、宵待草と言う花はない。詩人はアカバナ科の黄色い大きな花・大待宵草を宵待草と名付けて詩句とした。
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