(写真:薄田泣菫詩碑:成導寺の西東三鬼墓:谷崎潤一郎文学碑)
   長法寺から北上、西寺町の愛染寺で車を捨てた。棟田博の文学碑(代表作「村田里ん」の一節刻)を見て、昔の街道筋の面影を残す西寺町をぽくぽく歩き成導寺に向う。神奈川・三浦半島の葉山町で晩年を過した、無季俳句の巨匠・西東三鬼の奥津城があるので捜そうと訪ねた。当地の随一の古刹と紹介されていたが寂れた寺であった。「墓地中央付近」との情報を頼りに広い墓地に迷い込んだ。漸く発見した奥津城には「西東三鬼之墓」と山口誓子の筆跡で刻まれた墓碑。その左に「水枕ガバリと寒い海がある」と彼の代表句が墓碑の半分を占めていた。
   句は作者が篤い肺侵潤に罹った折の詠。「アイスノン」が出て「水枕」は死語になったが、子供の頃、熱を出す度に母は水枕を当ててくれた。確かに水枕をすると頭を動かす度にガバリというような音がする。そこから「寒い海」へ発想が飛んでいくあたりが非凡。鹿児島の指宿・長崎鼻で見た篠原鳳作の句碑に彫られている「しんしんと肺碧きまで海の旅」と合わせて好きな句である。
   寺の近くに西東三鬼の生誕地があるとの情報は不充分で迷った。「カサエ金物店」の店先で老婦人に尋ねると、すぐ店の前の駐車場が旧居跡で、少し西の交差点西南角が生誕地だと指差して教えてくれた。お礼を述べると「ご苦労様です」との返事。まったくご苦労様なことであった。生誕地記念碑と句碑を見ながら、葉山の終焉地に建つ句碑を思い出し、三鬼の句碑巡りもこれで完了だと思った。
   津山市内を東西に貫通する吉井川の清流は広くゆったりと流れていた。JR津山線が開通する前は高瀬舟が往来したこの町の大動脈。昔はもっと川幅が狭かったようで当地では「ごんご」と呼ばれる河童も出たという。城見橋の袂で中村汀女の句碑を見ながら河童を探した。河童は陸に上がっていた。銅像になって町中の随所で遠来の客を持て成してくれた。
   昼食を済ませて車を探す。駐車していた車には津山駅から長法寺・愛染寺と周ってくれた中年の運転手が座っているではないか。市中を何台も走るタクシーなのに同じ人に出会うとは。早速、町の北西にある谷崎潤一郎旧居に案内を頼んだ。元藩主・松平慶倫公の別邸と墓のある所が旧居跡で、地の人は「愛山廟」と呼んでいる。戦火を避けて昭和20年5月から7月迄の短い期間の疎開ではあったが、克明に残した「疎開日記」が文学碑になっていた。奥の鶴山幼稚園からは元気な子供達の声が溢れ、隣の地蔵堂ではほうき草が真っ赤に燃えていた。
   津山城址にある文化センターの玄関前には三鬼の句碑が、秋空の青いキャンバスに聳える小さな隅櫓を見上げながら、芝生の絨緞に腰を下ろしていた。刻まれた「花冷えの城の石崖手でたたく」の句意を確かめるように碑を触ってみると秋の陽射しに暖かかった。桜の名所・二の丸跡には「生ぬくきにほひみたせて山桜 咲ききはまれば雨よぶらしも」と刻まれた尾上柴舟歌碑(当市田町出身)があった。広い城址に芭蕉句碑などの碑を訪ね、津山での15基近い訪碑を慌しく終えた。
                               −P.02−