天皇を「天子様」と仰ぐ両親のもとで育った光太郎には自分の意思ではどうにもならない血が流れていた。太平洋戦争への協力は意思的に選び取ったというより、燃え尽き症候群の中で体内の血が本能的に選んだ決断であった様に思われる。世の流れに抗して人間らしく生きること、全ての権威に反抗を試みてきたそれまでの光太郎からは想像も出来ない数年間であった。何事にも真剣に取り組み、熱中すれば愚直に歩く光太郎の性格が多くの戦争詩を産み出し、若者を熱狂させ戦争に狩出した。「その決断が自発的であった故に、終戦後は誰よりも傷が深く、悔恨も烈しかった」と光太郎は回顧する。
   昭和20年4月、東京大空襲はアトリエを焼き尽くした。智恵子の紙絵と父の形見の彫刻用小刀だけは何とか持ち出したものの、彫刻・詩・短歌・翻訳など全精力を投入してきた作品の数々は空しく戦火に消えた。
   みちのく・花巻には十数年の時を隔てて二人の巨人が住んだ。花巻を舞台に活躍した宮澤賢治は昭和8年に37歳の短い生涯を閉じていた。がその後に、もう一人の巨人・高村光太郎がその生家(弟・宮澤清六が継いでいた)に東京から転がり込んだことに奇遇を感じる。昭和20年5月のことであった。
    この家も8月の空襲で焼け、途方に暮れる中で終戦を迎えた。10月稗貫郡太田村山口(現・花巻市)の山裾に鉱山小屋を移築し、農耕自炊を始めた。光太郎62歳。老いの季節を迎えていた。
   自ら「流謫」と呼ぶ生活が始まった。「流謫(るたく)」とは広辞苑によれば「罪によって遠方に流されること」とあるが光太郎は自ら望んで七年の長きに亘る孤独な生活を続けた。わが国の文学者でこれほど自分の作品に責任を感じた人を光太郎以外には知らない。
   彫刻をするにも材料も道具もなく、7年間の歳月の作品は、「人間の極限のドラマ」(北川太一)を綴った「暗愚小伝」「典型」「智恵子抄その後」だけである。 寄る年波、進行を始めた結核・肋間神経痛との闘い、厳しい自然環境での農耕自炊と壮絶な時間が流れる。自虐とさえ思われる日々を過したのは緩慢たる自殺ではないかとさえ疑う。冬には夜具の肩に雪が積り、インクは凍り、夏にはまむしがざわざわいる日々は彫刻家を断念させたが詩人を進化させた。 詩は、「
智恵子はすでに元素にかへった/わたしは心霊独存の理を信じない/智恵子はしかも実存する」(詩「元素智恵子」)と智恵子への挽歌から光太郎と智恵子二人の鎮魂の詩へと進化した。
   大自然の中に裸の人間が放置された時、最早己を守るものは研ぎ澄まされた精神しかない。そんな詩人の魂は澄んだ星空を眺め、山の空気と水を吸い、「自然の法楽」(作家の自伝)に感謝しつつ、やがて智恵子からも自己からも脱却をして行く。解脱は自然との共棲によってなされ、新しい人生観を獲得した。
   昭和24年10月、造型への飢餓に苦しむ光太郎は「
わたくしの手でもう一度/あの造型を生むことは/自然の定めた約束であり/・・・/智恵子の裸形をこの世にのこして/わたくしはやがて天然の素中に帰ろう」と最後の志の詩「裸形」を書いた。
   後に文化勲章を受章した建築家・谷口吉郎は「十和田湖開発功労者顕彰記念碑」の設計を頼まれ思案していた。広島の原民喜詩碑(谷口吉郎設計)の除幕式の帰途の車中で、佐藤春夫らとの懇談中、「裸形」の高村光太郎に頼もうという事になり、光太郎の願いは実現に向って進み始めた。
   昭和27年10月。肉体的には崩壊寸前の光太郎は最後の力を振り絞って、花巻を離れ、東京中野の故・中西利雄(水彩画家)のアトリエに向った。幸い健康は少し安定し、封印されていた造型意欲が噴火、約一年後、裸像は完成した。これが彫刻の最後の仕事となったが光太郎の夢は叶った。精神は久し振りに味わった造型の歓びに沸き立ち、造型への意欲が甦ってきたが肉体はそれを裏切った。
   光太郎のアルバムに一枚、その頃の写真がある。そこには私の夢見る晩年の姿がある。冬の東京のアトリエで肘掛け椅子に座っている最晩年の光太郎で、あれほど執着した人間の命の流を静に聴きながら、その執着から脱却している姿だ。
   昭和31年秋、翌年の元旦掲載の詩「生命の大河」を執筆した。そしてこれが絶筆となった。この詩では「
生命の大河はながれてやまず/一切の矛盾と逆と無駄と悪とを容れて/ごうごうと遠い時間の果つるところへいそぐ/時間の果つるところ即ちねはん/ねはんは無窮の奥にあり/またここに在り/生命の大河この世に二なく美しく/一切の「物」ことごとく光る」と生命賛歌を詠いあげる。因みに「ねはん」を広辞苑で引くと「涅槃−煩悩を滅却して絶対自由となった仏教の理想とする境地」とある。その「ねはん」を現世に見出した所に光太郎の悟りがあった。
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