大切な本を飾った本箱に同じ名前の二冊の古い本が並んでいる。
詩集としては一番沢山売れた高村光太郎の詩集「智恵子抄」が二冊も並んでいる。
一冊目には「昭和31年8月和歌山・上野山書店にて購入」とある。昭和31年といえば私が和歌山・桐蔭高校在学中で受験と初恋の勉強に夢中になっていた時代である。
二冊目を開くと献辞に「ぼくたちの小さな旅のかたみに・昭和39年1月」とある。昭和39年1月といえば前年の大病から無事に生還したものの、続いてやって来た恋の病を患っていた頃である。
「僕も同じ本を持っています。何時か僕達の本棚に二冊が並ぶといいね」とデイトの帰りにおずおずとこの本を手渡した。それから10ヶ月後、小さな家に二冊の本が幸せそうに並んだ。それ以来、二冊は離れ離れにならなかった。
平成16年11月、私は結婚40周年を迎えた。総決算に「私の智恵子抄」を書いてみようと思った。年譜風に光太郎夫妻の足跡を追い、その「いしぶみ」を訪ね、付録として、多くを学んだ光太郎の連詩「暗愚小伝」に倣って、私の足跡も辿って見たい。
第一章 出会いはグロキシニアの花
地下鉄「千駄木」の駅で降りた。古い東京の名残を残す団子坂を登り、森鴎外の旧居・観潮楼跡を左手に見て頂上で右折し光太郎・智恵子の旧居に向った。千駄木は静まり返っていた。古い住宅街の中に40坪ほどの駐車場があった。道路脇には「高村光太郎旧居跡」の案内板。どうやらこの駐車場の所が旧居跡らしい。案内板の略歴は簡単すぎるので少し詳しく追って見よう。
光太郎の父・光雲は仏師として育ったが、その才能を岡倉天心に見出されて、東京美術学校(現・東京芸大)彫刻科教授になった。上野公園に立つ「西郷隆盛」銅像などで、日本の彫刻科の第一人者として活躍した。
長男・光太郎は、明治16年(1883)に東京下谷に生まれ、親の後を継いで彫刻家となる運命を背負って、少年時代から父の手伝いをしながら育った。が一方では、俳句・短歌にも早くから目覚め、東京美術学校(現・東京芸大)彫刻科在学中より、与謝野鉄幹「新詩社」に参加して活躍した。
明治38年22歳、光太郎の人生を変える出会いがあった。k・モオクレエルの「オウギュスト・ロダン」を丸善で手に入れ、感動に身を震わせ、これこそ自分の道だと思う。(「作家の自伝」)ここから父の彫刻と異なる新しい彫刻を目指す道が始まった。
「新しい道」は日本にはなかった。
明治39年23歳の光太郎は横浜を発ってアメリカに渡る。その頃はヨーロッパを目指していても、先ずアメリカに渡り自活しながらヨーロッパに渡る機会を狙うのが通例であったという。アメリカで働きながら彫刻を学び、明治40年渡英、明治41年ついに憧れのパリの土を踏んだ。
パリの第一歩は、1877年(明治10)にモネが描いた、あの「サンラザール駅」であった。一泊目はカルチェラタンの「オテル・スフロー」で近くのパンテオンの前庭には本物の「考える人」が座っていた(後に設置場所移動)。モンパルナスの近くに一室を借り、「パリそのものが芸術だ」と夢中になった。「私はパリで大人になった/・・・/私はパリではじめて彫刻を悟り/詩の真実に開眼され・・・」(連詩「暗愚小伝」)とあるように、パリは光太郎を開眼させ、成長させた。
明治42年、近代人としての自我に目覚めた光太郎は日本に帰ってきた。それまでの日本には存在しなかった純粋の近代彫刻家を目指した苦闘が始まった。道は険しく壁は高く苦悶する日々が続き、生活は乱れる中で運命が扉を叩いた。
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