「あれではないか。あれではないか」と何回も繰り返した末に、反対車線の道路の脇に巨大な石碑を発見。写真を見てきたのでこれだと確信する。  そこは宇佐美の街並みと伊東沖の手石島が鳥瞰できる格好の場所。詞碑の傍には一本のみかんの木。そこには申し訳なさそうに大きな実が二つだけ残っていた。
   ここから伊東駅までの間に拡がる、宇佐美のみかん畑には予想に反してまだまだ沢山の黄色が残り、河津桜が縁取っていた。惜しむらくは、天城山塊の東斜面では日暮れが早く、黄色が薄汚れていたことであった。日中にはキャンバスが蜜柑・水仙の黄色と河津桜のピンクで埋め尽くされたであろうとの想像を土産に急坂を下った。
               
                   (亀石峠からの宇佐美市街遠望:「みかんの花咲く丘」詞碑)
旅の終りに
   今回の主役・富士について今少し書いておきたい。
   日本を代表する山を描いた文学作品は数多い。万葉集に始まる和歌の数々、近世から現代では俳句、小説にも登場しているが、無知を承知で書くならば、遠い昔に描かれた二つの和歌を越える作品を私は知らない。
 「田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける(万葉集・山部赤人)
 「風になびく富士の煙の空に消えて行方も知らぬわが思いかな(新古今集・西行法師)
   さすがの芭蕉もこれ以上の作品は詠めずに、「霧しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き」と斜めに構えている。小説では、愛読した新田次郎の一連の作品位であろう。太宰治が河口湖の御坂峠の天下茶屋に籠もって書いた「富嶽百景」は「通俗」の象徴として富士を茶化しているが、「富士には月見草がよく似合う」の言葉だけが有名になった。
   この日本を代表する山は多くの人々に様々な姿を思い浮かべさせるが、その偉大さ、力強さ、永続性、神聖さ、均整のとれた姿、優美さ、などを文学にまで昇華させ、赤人や西行を越えることは至難の業のようである。
   老いの道にいしぶみを訪ねる旅を始めてから幾つもの絶景に出会った。その何れもが英国の詩人・ワーズワースが「至高の時」と名付けた、心を癒す自然の風景であった。だが、美しい風景も「絵葉書」で終ることもあった。旅人の思いで味付け出来た風景のみが、「私の絶景アルバム」に残された。それらの旅で訪ねた忘れられない言霊たちと共に、何れ天に昇る時に携えて行きたいと強く望んでいる。
   旅の土産に、大瀬崎への道すがら、西浦部落で買い求めた蜜柑を持ち帰った。それは、この旅のようにずっしりと重く、香り豊かなものであった。(05.03記)
P.4へ戻る                                −P.5.完−                        メニューに戻る