(左:桜川清流−クッリク拡大・中:桜川畔の大岡信文学碑・右:三津安田屋旅館の太宰治文学碑) 
   三津の太宰の宿
   伊豆長岡から130号線で一山を駆け下りると三津海岸。この小さな港は「シーパラダイス」で有名だがそれ以外には何も無い。古びた、それでいて堂々とした安田屋旅館の玄関脇には太宰治文学碑が恥ずかしそうに建っていた。   碑には小説「斜陽」一節「海はかうしてお座敷に坐ってゐると、ちょうど私のお乳の先に水平線がさわるくらゐの高さに見えた」が自筆で刻まれていた。
   昭和22年、38歳の太宰は神奈川県小田原市下曽我の「大雄山荘」に疎開していた旧知の太田静子を訪ね、太宰が書くことを薦めた静子の日記を預かった。この時、静子は身籠り、後に太宰の子・作家・太田治子を産む事になるのだが、太宰は預かった日記から「斜陽」を産んだ。日記を携えた太宰は友人の田中英光の疎開先であった三津に赴き、この安田屋旅館で小説「斜陽」の執筆に取り掛かったのだ。
   出来上がった「斜陽」で、一躍、脚光を浴びることになった太宰だが、翌年の昭和23年に自ら生きることを止めてしまった。執筆中の小説の題名が「グッドバイ」とは如何にも太宰らしかった。短編集「晩年」冒頭に掲げた「撰ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり」と言うヴェルレーヌの詩句のような生涯であった。
   旅館から見えた富士山は三津湾に浮かぶ小さな淡島と急激に海に落ちる断崖に挟まれて窮屈そうに座っていて、恰も、太宰の生涯のようだ・・・と思いながら、更に富士を見ようと大瀬崎に向った。
   * この縁で安田屋旅館は、「青森・金木町(生誕地)」「三鷹・禅林寺(墓地)」と共に、太宰の命日の桜桃忌には大勢の人が集う太宰のファン聖地となっている。一方、小田原の「大雄山荘」は曽我梅林に近く、「曽我物語」で有名な曽我五郎・十郎兄弟の菩提寺である城前寺の直ぐ先にある。今は廃屋の屋敷だが、太宰縁の場所、高浜虚子が句会を催した場所で、虚子句碑の調査に無住を幸いに勝手に潜り込んで写真を撮ったが、広大な廃屋は気味が悪かった。
   
    伊豆長岡から亀石峠越え
   大瀬崎から伊豆長岡に戻り旅は最終章に入った。NHK大河ドラマ「義経」の舞台・韮山や北条館跡などの旧跡に幾つかのいしぶみを訪ね、大仁から亀石峠越えに取り掛かった。
   道は暮れかかった天城の山中に高度を上げながら伸びていた。峠を越えると、一気に伊東の宇佐美海岸まで急勾配を転げ落ちる。ヘヤピンカーブの連続をドライバーに任せながら、風景を楽しむ余裕もなく懸命に眼を凝らし、童謡「みかんの花咲く丘」の詞碑を探す。
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