遊歩道の終り近く、柏槙の根元に海を背景にした鉄幹の歌碑を見つけた。「船を捨て異国の磯のここちして 大樹の柏の蔭を踏むかな」とあるところを見ると鉄幹は沼津から船で来たらしい。
   「柏槙の異国」から来る道で発見しておいた高台の「天女の舞」の観覧席?に戻る。
   そこは細い道の端の僅かな空地である。その先は断崖を転げ落ちるだけの狭い空間に恐る恐る車を進めると、そこには「私の絶景」が待っていた。
   冬の自然は花の代りに透明な空気を準備していた。眼下には気味悪かった大瀬崎の緑が海に突き出し前景を作る−そうあの柏槙の老木にも役目はちゃんとあったのだ−。その向うに駿河湾の濃紺が広がる。遠くから眺める富士は、光の拡散により実際よりも青っぽく見えるらしいが、眼前の富士も海の青さに染まっていた。
   手早く何枚か写真に記録していると、幼い時に祖母に連れられて習った謡曲「羽衣」が蘇ってきた。作者未詳の「羽衣」の最後はこんな一節で謡い納める。
   「さるほどに、時移って、天の羽衣、 浦風にたなびきたなびく、三保の松原、浮島が雲の、愛鷹山や富士の高嶺、かすかになりて、天つ御空の、霞に紛れて、失せにけり
    快晴、雪を戴く富士、青い海、緑の松原・・・、それを天女になった気持ちで眺められるのだから、誰しもが素晴しい・・と感動する美的条件が整った「天女の舞」の観覧席だ。 加えて、私の心の中には、<板敷きの舞台の上で意味も解らずに声を張り上げていた風景とはこれなのか>、<底知れぬ断崖の縁に立って、その恐ろしさを忘れて居られるからこそ風景は美しい>、<もう二度とこんな美しい風景に出会うことはない>と様々な想いで満ちていた。単に美しいというだけでなく、それを見た私の心がこの風景を「私の絶景」にしたようだ。
   太宰が「ペンキ画」と揶揄した、共同浴場の壁画・富士は、"不老不死(風呂富士)"の縁起をかついで描かれているという。幼い頃に見たあの「不老効果」が今しばらく持続してくれるよう、と思いながら暫らく佇んでいた。
                         
                        (大瀬崎高台からの絶景−クリック拡大−)
   清流の町・三島
   時間を少し元に戻そう。
   出発の日の東の空は朝焼けが青さを増していた。キリリとした冷たさが肌をさす。国府津を過ぎると富士の白い頭が出てきた。朝の光と今日の期待が車内に満ち溢れてきた。
   降り立った三島市は、遠い昔、富士山の火砕流の舌端が形成した町。今も、水が「万物の源」であった遠い地球の記憶が生きている町であった。
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