共同浴場、経堂小学校の校庭に響く少年少女の声、恵泉女学園とその大欅は遠い昔を残していた。角を曲がると記憶に刻まれた細道が寮まで続く。
   胸ときめかせて辿る。ありました。確かに、残っていました。 寮の門と建物の間には昔はなかったプレハブの住宅が建っていて、入口には「橘・学生会館」の標識。どうやら、幾多の変遷を経て、現在は「学生寮」として利用されている様子。鉄筋4階建ての白い建物は40年の風雪に耐え、ひび割れた壁面には過ぎた時が刻まれていた。
   裏手に周る。公団の住宅は改築され、綺麗な茶色の高層アパートに変身していた。南翼の1階、3つの窓をじっと見る。今も多分、往時のままと想像される部屋が4つ並ぶのが浮かぶ。左から「吉川」「浜田」「四ツ谷」「青野」と名札まで浮かぶ。読書で疲れた眼を休ませてくれた広い緑の庭を探したが、ひとまわりしても消えていた。密かに埋めた化石は小さな住宅の下か。この辺の地価の高騰を考えると、余程の余裕がない限りあのような広大な庭を持つことは不可能だと納得は行くが、埋めた化石が消えたのは淋しかった。
  あの白い壁面にひび割れが入っている様子などは俺そっくりだ、と暫らく佇んでいた。 思いもかけず、またまた、「ありがとう」との独り言が雨の中に消えた。それは、誰に向っての言葉だったのであろうか。何に対しての御礼であったのだろうか・・・。
   往時の散歩道を、今でも武蔵野の面影を残す蘆花公園への道を辿って見たかったが、数年前に再訪を果たしていたので経堂駅に戻った。記憶の中の商店街は短かったが、老いの足には遠かった。記憶の階段で見つけた青春の化石たちが雨で冷えた体を暖めてくれた。
                
(写真は左から「経堂・海音寺潮五郎文学碑」「旧経堂寮の入口付近」「旧経堂寮」−いずれも写真はクリックすると拡大−) 
   世田谷区には30余基の文学碑がある。今回の散歩で、北烏山の宗福寺にある歴史小説家・山手樹一郎の文学碑を残すのみとなった。
   歩きながら思い出していた短歌があった。海音寺潮五郎の「七十になりて思へば 来し方の大かたはよきこと ありしがごとし」であった。介護している98歳の父も同じ事を言っていた。どうやら記憶には、「若い時代には"苦しく、にがい"が多く残り、ある歳を越えると"楽しく、甘い"が多く残る」という奇妙な作用があるようだ。神様が準備した人生のマジックかもしれない。
   化石を拾い、暖め、そっと埋め戻したような「いしぶみ紀行」であった。訪ねた文学碑も、化石も「老い」を封印して、今一度、スタート地点に立たせてくれた。 (2004.12.記)

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