門下生が建てたこの碑は築地本願寺和田堀廟所にある石棺を模したとの話を思い出しながら、濡れるのを厭わず写真を撮っていると、後から声がかかる。
「碑文は読めましたか」
「ええ、恥ずかしながら、資料がありましたので何とか・・・」
応接室で濡れた衣服を整えながらひと休みさせて頂く。この椅子に司馬遼太郎も腰をおろして主と歓談したのだ、と思うと肘掛を掴む手に力が入った。
「丹精されたお庭ですね」
「年寄りには昔のようには参りませんが、せめてお花だけは絶やさないようにしています。それに、故人が愛した小鳥達は今も来てくれるのですよ。柿の木も残っています」
指差す庭の一角の老木には数個の熟れた柿の実と餌台がしがみついていた。主の亡き後も自然の営みは変わりなく続き、それを愛した故人の遺志がしっかりと守られていた。
「40年ほど前、この奥の船橋に数年間住んでいました」
「そうでしたか、この辺も当時とは随分変ったでしょう」
「小さな家が増えましたね」
「そうですの。戦後こちらに越してきた時には空地も多く、大きなお屋敷ばかりでしたが、皆様、地価の高騰で相続税が大変で、こんなごみごみした住宅街になってしまいました」
「今日は、突然お邪魔してご迷惑をお掛けしました。沢山の文学碑を訪ねましたが、こんなに美しく飾られ、大切にされている文学碑にはめったにお目にかかれません。眼福のひと時を過させていただきました。本当に有難うございました」
   何度も同じ謝辞を繰り返し、再び訪れることがないかも知れないと思いながらも、化石をまた一つ埋めておくことにした。
*海音寺潮五郎(1901−1977) 鹿児島県大口村(現・大口市)生。歴史小説家。文化功労者。「天と 地」「平将門」「西郷隆盛」などが代表作。当地には昭和24年から亡くなるまで居住した。豪放磊落で反骨精神に貫かれた生涯は、司馬遼太郎、黒岩重吾、寺内大吉など多くの作家を育てた。筆者にはNHK大河ドラマ「天と地と」(昭和44年放送)の原作やライフワークとして完成させた「西郷隆盛」が特に印象に深い。
*2001年秋。鹿児島県・坊津にある梅崎春生の文学碑「人生 幻化に 似たり」が旅   を誘った。 宮崎では飫肥城・東郷町の牧水生家・高千穂峡の文学碑群まで足をのばし、鹿児島では加治木町・霧島高原・桜島・指宿へと巡った。最終日は知覧から坊津へと7泊8日の長い旅であった。 この旅では海音寺潮五郎の文学碑を三つ訪ねた。加治木高校の校庭に建つ「私の人間美学はここで形成された・・・」と記された母校へのオマージュ。霧島高原に建つ「霧島は 神山なれば 谷々に 湧く雲さへも 尊かりけり」の歌碑。桜島に建つ「わが前に桜島あり西郷も 大久保も見し火を噴く山ぞ」の歌碑。特に、霧島高原にあった歌碑は黄色い石蕗の花を見るたびに思い出す文学碑となった。この旅の後半の模様は前に親友・四ツ谷稔君へのレクイエムと して詳しく書いた。
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