隣室を訪う。細身の四ツ谷君が読んでいた本から眼をあげる。
「ソレンセンの"ケネディの道"は面白いぞ」と昨晩読み終えた興奮を話しながら、「明日は天気が良さそうだから、明治生命グランドの水上滝太郎文学碑
(碑文「志は高かるべし」.その後移転し今は無い)を見て芦花公園まで歩こう」と待ち遠しかった休日のプランを練った。
   開け放った窓から、蛍光灯の光が照らす芝生の緑が眩しかった。社会人三年生は連日の残業で草臥れたが、心豊かな日々であった。
   試練は突然にやって来た。ノックもなしに。環境の大変化に上手く対応出来ていなかったようだ。少し頑張りすぎたのだろうか。虫垂炎の手術。予後に発生した大腸の閉塞で連続して手術を受けることになった。郷里を離れ一人暮らしでの大病は、きつい日々であった。が、三途の川を渡るには渡銭がなかったし、大勢の友人に助けられて何とか復帰した。
   そんな日々、私のお守りは机の上の中原中也であった。空色の額縁の中には、
「かくは悲しく生きん世に 汝がこころ かたくなにしてあらしめな・・・」と書家の見事な筆跡が並んでいた。「かたくなな心は問題を複雑にして、解決を難しくしてしまう」との思いは、大学時代から続く、長い独居生活で得た一つの教訓であった。この天才詩人の「無題」という長い詩には、それ以来、様々な局面で救われた。
    翌、1964年、国内がオリンピックで沸き返る秋、青春の化石を密かに庭に埋めて、経堂寮を去った

−2004.晩秋−経堂−
   昨年に見残した高群逸枝旧居・「森の家」を訪ねるべく、玉電を上町で降り、住宅街に足を踏み入れた。事前調査には完璧を期したはずだが、世田谷の道は複雑で散々迷った。ここに「森の家」を建てた昭和初期には、武蔵野の森の中であったからだろうか・・・。
   漸く見つけた旧居跡は100坪ほどの小公園。その片隅に日本女性史の門を開いた高群の詩碑が小雨に濡れていた。赤茶色の御影石には
「時のかそけさ 春逝くときの そのときの 時のひろけさ 花ちるときの その時の」と彫られていた。この詩句を理解するには、この地での作者の生活を知らねばならない、と出かける前に俄か勉強をした。女性問題研究家の間では神様のような人であるが、何も知らなかった。簡単に紹介しておこう。
自ら「火の女」と称した彼女は1894年(明治27年)熊本県益城郡松橋町に生まれた。上京して短歌や詩 ・小説を発表、「天才詩人」として華々しいデビューを果たす。結婚後、家庭内おける女権の問題に目覚め、 昭和6年、36歳の時、当地に「白い家」を建てた。爾来70歳で没するまでの33年間、「門外不出」「面会謝絶」「一日十時間の研究」を自らに 課して、独学で女性史の研究生活を続けた。この凄まじい生活は「毎日同じ場所に座って勉強し続けたために、上着の陽の当たると   ころだけが色褪せてしまった」との逸話を残し、「母系制の研究」「女性 の歴史」などに結実した。そんな生活から生れた碑文は詩人から出発した彼女の感性が光る詩句である。高群の文学碑は、全国に4基ある。この東京の他には郷里の松橋に1基と水俣市陣内に2基あるが、残念ながら、水俣の2基は詳しい所在が特定できていない。
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